松井冬子展 世界中の子と友達になれる

2012年3月10日、横浜美術館にて『松井冬子展 世界中の子と友達になれる』を鑑賞した。

当展覧会は、松井冬子の公立美術館での初めての大規模な個展である。代表作に加え、制作過程の下絵、デッサンなどが展示され、2011年までの松井冬子の集大成とも言える展覧会だった。以下に、印象に残った作品についてのメモおよび、全体的な感想を述べる。

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展示番号 18 「咳」

ミュシャを彷彿させる(彼女に、ミュシャからの影響はないのだろうか)。黒い、輪郭のはっきしりした、花、モノクロのミュシャである。希望が終わった後の、しかしそれすら希望にしてしまう、現代、あるいは、松井冬子自身の絵画の力。

あるいは、色彩を失ったミレイ。

はっきり言おう。男 性 視 点 か ら し て み る と 、 儚 い 萌 え がある。もっと気持ち悪く表現すれば、モ ノ ク ロ の ブ ヒ ペ ロ だ。

展示番号 27「《世界中の子と友達になれる》ための写生」

モデルなのか松井冬子の当時の画力か、原因はわからないが、足首が太い。制作途中の画なので、これだけで判断しては行けないが、ここには「咳」にあるような 萌 え はない。

展示番号 36「世界中の子と友達になれる」

やはり本画であっても足首が太く、しっかりしている。この描かれた人物のモデルは 少 女 のはずであるが、男性視点からすれば 少 女 で は な い 。もしかして、表面的には不安な雰囲気の絵画だが(松井冬子の絵画はおおむね 不 安 を喚起させるかのような題材が多い)、画家の内面は自信に満ちあふれているのかもしれない。だから、人物の基礎となる下半身、特に足首がしっかりしていると言えるのではないか(言えるわけない)。

展示番号 68「《ややかるい圧痕は交錯して網状に走る》ための大下図」

展示番号 74「構想」

両方とも制作過程であり、モノクロである。「《ややかるい~》」ではグラデーション的に、「構想」でははっきりと、女性が内臓を 見 せ び ら か し て い る 。特に「構想」の方では、自ら皮膚を切り裂き、自ら内臓を取り出しているかのように見える。思い出されるのは、照 沼 フ ァ リ ー ザ だ。

照沼ファリーザもまた、女性を題材にした グ ロ テ ス ク な作風を得意とする芸術家だ。要するに、内 臓 萌 え だ。

展示番号 86「ややかるい圧痕は交錯して網状に走る」

展示番号 68 の本画。「世界中の子と友達になれる」でも同じことを感じたのだが、とにかく 下 半 身 が し っ か り し て い る 。そのためか、意図しているかどうかは分からないが、素人目からしてみると、少し身体のバランスがとれていない気がする。

展示番号 95「従順と無垢の行進」

かなり抽象的な、何を題材にしているのかが解りかねる作品。左右対称かのように描かれているため、ロールシャッハテストを思い起こさせる。また、子宮のようにもみえる(ロールシャッハテストの図は、誰も口にしないが、誰もが思っていることだが、どれもエロティシズムを感じさせる)。

展示番号 96「浄相の持続」

展示番号 96 – 100 は、九相図である。ここでも、美しい女性の 内 臓 が 堪 能 で き る 。つまり、内 臓 萌 え である。

内 臓 萌 え と言えば、前述の通り照沼ファリーザと比べられる。松井冬子は東京藝術大学出身の日本美

術界の超・エリートである。方や照沼ファリーザは、晶エリー名義でポルノ女優をしている。同じように男性(というか私だけか)へ 内 臓 萌 え を与える、ゼロ年代後半から注目されている両者が、ここまで対称的な社会的立場であるのは非常に興味深い。

———、両者に共通しているのは、内 臓 萌 え の提供だけではない。両者とも、自身の想像する 女 性 性 を最大限に発露させる芸術家であるが、この発露によって、個人性が隠蔽されていると考えられる。つまり、彼女たちが自身の得意なスタイルを磨き上げようとすればするほど、彼 女 た ち は 一 体 誰 な の か が理解し難くなる気がしてならない。

(当然ながら、展覧会には女性客が多い)

展示番号 102「究極にある異体の散在」

この絵画も、「ややかるい圧痕は交錯して網状に走る」と同様、男性視点からしてスタイルの良い女性が描かれているわけではない(特に下半身から足元にかけて)。

展示番号 104「無傷の標本」

兎唇である。モデルは少女を思い出させる。要するに(専門家からぶっ叩かれそうだが、) ω である。だから、アニメキャラがデフォルメされたときの口元である。はっきり言おう。松井冬子自身はそんな気はさらっさらないと思うが、この作品の本質は 萠 え である。というか、松井冬子の代表作のほとんどが、 萠 え である。専門家は「痛みが~」とか「痛みが~」とか「痛みが~」とか分析するが、というか ブ ヒ り である。もしこの点を自覚しつつ制作しているのなら、小聡明すぎてますます好きになってしまう。


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