「登場人物のモデルについて考察」について考察

あるフィクションの物語について、作者の実生活 (人生といってもいいかもしれませんが) と物語との関連が考察されることがありますね。例えば、物語の主人公が作者自身なのではないか、とか、登場人物は作者の身近な人なのではないか、とか。もちろん作者自身が私小説だ、と公言しているケースもありますが。そうでない、現実離れしているような設定の物語であっても、登場人物のモデルに作者の身近な人を見立てる、といった解釈がされることがありますね。

先日公開されて、話題の宮崎駿監督のアニメ映画『君たちはどう生きるか』もそういった考察がさかんにされています。映画『君たちはどう生きるか』の場合、難解なストーリーだけなく、ネタバレ箝口令が公式的に出ているのと同じような状況なのも、考察がさかんな理由だと思うのですが。事前のプロモーションはほとんどナシで (ポスターと公開日だけ)、公開後もパンフレットが発売されていませんから。

ここから、映画『君たちはどう生きるか』のネタバレを書くので、注意してほしいのですが。





例えば、映画『君たちはどう生きるか』の主人公は宮崎駿自身なんだ、とか。確かに、宮崎駿の実家は、軍需関連産業の会社を経営していて裕福だったらしく、主人公の眞人と境遇が似ているところがありそうですが。いや、眞人は宮崎吾朗なのだ、とか。それから、ヒミは宮崎駿の実母がモデルなんだ、とか。大叔父もまた宮崎駿自身なんだ、とか、いや、大叔父は高畑勲なんだ、とか。キリコは保田道世なんだ、とか。映画『君たちはどう生きるか』は、宮崎駿の人生と、スタジオ・ジブリのこれまでの歴史がモデルなのだ、とか。13 個の石は、宮崎駿がこれまで関わってきた長編アニメの数で、「もう次の作品はない」的な意味合いなのだ、とか。宮崎駿という作者の人生と、映画『君たちはどう生きるか』の関連が、いろいろ考察しされていますね。

他の作品だと、『シン・エヴァンゲリオン』について、マリは安野モヨコなのだ、とか。これは公式で否定されていますが。

マリ = 安野モヨコ説の否定は、フィクションの登場人物を、そのまま現実の、作者自身及びその周辺の人物のモデルとして、鑑賞者が見立てるのはやや短絡的な見方だ、と言いたいのだと思いますね。

フィククションの登場人物は、モデルがいるにしても、もっとたくさん、いろんな性格・設定が、作者によって付与されているのではないでしょうか。

ただ、作品を読み解く上で、作者の人生について深く知ることは、必要なことだとも思います。そして、主人公のモデルは作者自身なのだ、といったような解釈は、ある程度当たっていることもあるでしょう。そして作品が難解な場合、登場人物のモデルを、作者の身近な人 (作者自身も含めて) に求めることで、作品の理解の助けになるでしょう。本当に助けになるかは場合によると思いますが。「理解した気になった」という場合も少なくないかもしれません。

ですので、作者の身近な人を、物語の登場人物のモデルとして解釈して、そこで考察が終わってしまうと、勿体無いかな、と思いますね。

映画『君たちはどう生きるか』のストーリーが難解だったとして、例えば。主人公のモデルは宮崎駿で、ヒミのモデルは宮崎駿の母親だ、などと言われると、一瞬、理解した気になるのですが、ただ、冷静に考えると、フィクションの登場人物のモデルが、現実世界の人なんですよ、と指摘されたところで、それは理解したことにはならないと思うんですけど、どうなんですかね。

また、映画『君たちはどう生きるか』の例が続きますが、映画『君たちはどう生きるか』をどう評価していいか分からないとして、主人公のモデルが分かったところで、それで評価できますかね?

作者論にとどめるなら、ある物語について登場人物のモデルの解釈だけで、事は足りるかもしれませんが、あくまで作品について何か考察したい、といった場合、登場人物のモデルを予想するだけだと勿体無い気がしますね。せっかくある作品を鑑賞して感動したのであれば、作者論にとどまらず、もう少しですね、普遍的にも同時代的にも、作者論を超えた何か、意味とか価値とか読み取りたいですよね。

作者論のついでに。引用元の指摘は、また少し違うと思います。あるいは影響元の指摘ですね。例えばアニメの場合は、歴史的名画からの引用があるのではないか、と解釈したりすますよね。そういう、歴史的名画からの引用の場合は、やはりその名画にそもそも何らかの意味があるので、名作と呼ばれる。その引用元の名画に込められた意味を参考にすることで、アニメの意味が明らかになってくる、という場合も考えらますね。映画『君たちはどう生きるか』の場合は、ベックリン「死の島」からの引用があるのでは? と指摘されたりしているのですが、そうなると、そこから、元ネタの「死の島」に込められた意味から、映画『君たちはどう生きるか』の物語を考察する、なんていうことが可能になりますね。念のために言っておくと、これは「たとえ」ですので。映画『君たちはどう生きるか』で本当に「死の島」が引用されているかどうかは定かではありません。

さて、引用元の指摘は、その引用元が歴史的名作だとしたら、作品の普遍的な価値や意味を読み取るきっかけになると思いますね。過去の名作に込められたテーマと共通のテーマを持っている作品だ、ということで。そういう点で、作者が影響を受けた作品を知る、というのは、作品理解の重要な手助けになるかな、と思います。影響を受けた作品というのは、絵画や文学だけでなく、思想家の著作なども含みますが。

同時代的な価値や意味、という点では、例えば、現代の歴史的な事件、事故、出来事ですね。それに作者が影響を受けた、というのを知ることができると、同時惰性があるのではないか、と判断できますね。

ただ、それも「知る」だけだとあまり意味はないですよね。

作者がインタビューで、影響元についてこういうことを言っていた、みたいな。それをまとめるだけだと、まとめて終わりで、それ以上進展がないというか。

影響元について、インタビューを読んで確認してまとめて「知る」で終わりではなくて、影響元の価値や意味も、理解しておいた方がいいのではないか、と思いますね。

それで、普遍性についてを中心にもう少し話を進めると。作品の普遍性を評価するために、作者が直接、影響を受けたと公言していない絵画や文学、思想との共通点の考察もしていいと思います。というかどんどんするべきですね。

ただこれをすると、「作者はそんな影響を受けていない!」という反論をもらうことがあるのですが、あくまで「普遍性がありますよ」と認めるために、直接影響を受けていないだろう作品・思想を参照するのであって、直接影響を受けたと言いたいわけではないのです。この辺、理解いただけないことがあるのですが。作者本人からも反論があったりするのですが。

そもそも、芸術の場合は事情が異なるかもしれませんが、思想の場合は、すでにこの世界に存在している何かについて、ある思想家が気付いて、その何かに概念というかたちで名前を与えた、ということだと思うので、思想家の思想というのは。そういう点では、思想というのは、科学的発見と似てはいますよね。万有引力も、ニュートンが作り出したのではなくて、そもそも世界に存在していて、ニュートンが発見したのであって、この世界の事物が万有引力に従っているからと言って、私たちがニュートンの直接の影響を受けているとか、ニュートンの著作を読んだことがあるとか、そういうことにはならないですよね。例えば、(思想と言っていいか微妙ですけど) フロイトが無意識を発見した、と言われていますが、これも「ニュートンの万有引力」と同じで、無意識的な考え方が取り入れられたとみなしうる作品の作者が全員、フロイトの著作を読んだことがあるとは到底思えないですよね。そもそもフロイトは無意識を発見しただけで、フロイトが無意識を作り出したわけではないですし (たぶん)、無意識はフロイトの所有物ではないはずなんですよ。経済の法則とかもそうですよね。万有引力は、否定は難しいですけど、無意識や、経済の法則について反論があるとして、それはそういう、法則がある・ないというは、科学であれ議論されているので、その辺は同じだと思いますね。

ということで、私は映画『君たちはどう生きるか』を考察するにあたり、フロイトだったり、資本主義だったりというのを参考にしているのですが、

  • http://musicmusicologic.com/the-boy-and-the-heron-review/

これは映画『君たちはどう生きるか』の普遍性を評価するためであって、映画監督がフロイト主義者だとか、反資本主義だ、とかというのを言いたいわけでは、ないです。なかなか理解されないことが多いのですが。この辺。

さて、思想家の概念を援用する作品考察というのは、実は前々からふつうにあって、文学理論というジャンルがあるのですが、文学について、現象学やら脱構築やらといった概念を援用して解釈する、みたいな。逆に、ある解釈の仕方について、脱構築という名前がつけられたりとか。そういうのがけっこう前々からあって、そういう文学理論的な物語の解釈を、アニメに応用してみたりとか、J-POP の歌詞に応用してみたりとか、そういうのをしたがる人たちというのがいるんですね。

私はかつては、そういう、文学理論的なアプローチというのはあまり好きになれなかったのですが、ある時期から理解できるようになってきましたね。

以前は、アニメを解釈するのにデリダだのドゥルーズだのの名前を出す必要があるのか理解できなかったのですが、けっきょく、思想家の概念を用いて、アニメとか J-POP の歌詞などポップカルチャーを論ずるというのは、そのポップカルチャーに普遍性があるということになると思いますし、逆に、思想家の概念がポップカルチャーにも適用できるほど守備範囲が広いことの証明にもなりますよね。

最近というか、新型コロナパンデミックの前からだと、新しい実在論なんかが流行っていて、メイヤスーやらマルクス・ガブリエルやらといった名前をよく耳にするのですが、例えばメイヤスーの考え方で『鬼滅の刃』を論じることがもし、できたとしたら、メイヤスーの考え方は日本のポップカルチャーにも適用できるほど幅広いということになるし、『鬼滅の刃』の方もメイヤスーを通じて論じられるくらいは普遍性を持っている、ということになりますね。「もしできたら」の話ですが。そして「どうできるかどうか」は分かりません。詳しくないので。

ですので、過去の、しかし現代にも論じられている思想家の概念を用いて、物語を論じることは、その物語が普遍的な構造をもっていることの証明になると思います。

ここまでまとめると、作品を考察する際、登場人物のモデルを予想するだけではもったいない、と。作品の普遍性ならびに同時代性を評価するところまで、作品と向き合った方がいいのないか、と。普遍性を評価するときに、作者が影響を受けた過去の名作を

最後に。ものすごい感動した作品について、あれやこれやと論ずるのは、好きな人にとっては本当に楽しいんですね。私もそのクチなんですが、これは自戒ですが、ただですね、作者が 5 年、10 年、あるいはそれ以上かけて作り上げたものを、1 、2 回の鑑賞で、2、3 日かけて書いた文章で、何か分かった気になるのはあまりに杜撰ですよね。鑑賞者の態度として。これは自戒です。というか自分にブーメランのように返ってきていますが。

ただ、何も語ったり論じたりしてはいけないわけではなくて、一生懸命考えたけど、こういうところは分からなかった、みたいな正直さがあってこそ、作品と真剣に向き合っていることになるのではないか、と思います。何にしろ決めつけはよくないというか。私が言っても説得力ゼロですが。ただ、何も考えずに思考停止に陥るのもマズい。繰り返しになりますが、分からないところも認めつつ、一生懸命考えましょうよ、ということですね。


ここからは補足ですが、作品を考察するに当たって、作品にジャンルはいろいろありますが、映像作品の考察で、物語にだけ焦点を当ててもあまり意味がないとは思いますね。

ですので、私のしていることはあまり意味がない。

というのも、やはり、映画『君たちはどう生きるか』の場合はアニメですが、アニメにはアニメの独自の表現があるわけですよ。そこも注目したいというか、それまでのアニメにはなかった斬新な映像上の技法みたいなのがね、きっとあるはずなんですよね。

そういった映像上の技法と、物語の進行とか登場人物のセリフとか、もちろん音楽もそうなんですが、そういうところを関係させて論じるべきだと思いますね。本来なら。

ただ、私は映像の勉強をしたことがないので分からないので、物語の構造がどうなっているのか、くらいしか考えが及びませんが。ただ自分で取り組んでおいて無責任ですが、意味ないと思いますね。物語の構造だけ考察しても。

音楽も同じで、歌詞だけ考察してもあまり意味ないというか。やはり、その言葉がどんな抑揚でどんなリズムで音楽として表現されているのか、そして伴奏のコード進行はどうなっているのか。歌詞を考察するなら、そういったところも考慮した上で考察しないと、あまり意味ないのでは? と思います。逆に、歌詞のある音楽に対して、「歌詞に興味ない」というのも、もったいないな、と思いますね。

【スポンサーリンク】
スポンサーリンク

シェアする

フォローする

関連コンテンツとスポンサーリンク

【関連コンテンツとスポンサーリンク】



【スポンサーリンク】
スポンサーリンク