レビューとは、評論とは、批評とは何か。 私は長いこと、それらの厳密なあり方にとらわれていました。
私の中にははっきりとした批評への考え方、評論への考え方というのがあって、それはある程度レビューと区別されて、そして多くの人の考える批評や評論とはまた別の何かです。それは平たく言えば内在的批評なのですが(ただし少々歪んだ)。
そしてその内在的批評にあまりにもこだわりすぎるあまり、自分の中の書き手としての——言葉が正しいかどうかわかりませんが——何らか「アイデンティティー」のようなそれが、欠如していたような気がします。
要するに、何か作品を鑑賞するにあたり、作者の意図をなるべく正しく汲み取って、もしくは作者の意図を乗り越えたところにあるその作品の内在的な意味を正しく捉えなければ、文章化したときの価値は無いのではないか。かなり過激な言い方ですが、わかりやすく言えばそのような考え方すら持っていました。今でもそういった考え方がたまに、ふつ、と、湧いてきます。心の奥底ではそのように考えているのでしょう。
しかしそれでは一向に筆が進みません。 それでもいいかもしれません。
が、たとえ正確性を犠牲にしても、ある作品を鑑賞した際に自分の中で発火する何かを書き留めること。これは畢竟、無価値かもしれませんが、価値ある批評への第一歩だと思うのです。そしてその最初の一歩を文章化し、公開することを止める権利は誰にもありません。
私はこの10年以上、内在的批評に重きを置きすぎた結果、たくさんの素晴らしい音楽と出会っていながら、その音楽と私の間に生まれる原初の発火を、ずっと記録せずにいました。別に記録する必要は無いのです。
ある音楽と衝撃的な出会いをし、自分の中で発火した何かを書き留めた結果、「お前はまだそんなことも知らなかったのか」だの「ジャンルの捉え方が不正確だ」だの「こっちのアーティストを知らずにこっちのアーティストを語るな」みたいなことを言われることがけっこうあります。
そんなことは言わせておけばいいわけです。 そんなことは気にしなくていい。
なぜそんなことが気になるのかと言うと、それは自分が他者に対して何らか悪意に似た感情を持っているからです。自分の中から悪意をなるべく排除すると、他者からの非難なんてほとんど気にならなくなります。
こういったことに気づくのはある程度年齢や経験を経てからですが、その結果、他者からの非難を気にもせずに自分の向くままに行動していると「狂った」なんて言われるようになるわけです。これが——今これを書いているのは2026年4月ですが——ここ数日SNSを賑わせていた「40代独身は狂う」の「狂う」の正体の一つです。
ある音楽作品との衝撃的な出会いによって自分の中で起こった発火を、発火になるべく近い形で公開したら、非難されることはままあります。たいてい「不正確だ」とか「情報不足だ」という指摘で、大体それは的を射ていて——ということは不正確で情報不足な文章を書いて公開する必要など全くないわけですが。
それでも書いて公開する意義はあります。
あまり魅力の伝わっていない音楽の魅力を、1人でも多くの人に伝えられるかもしれないから。
これは別に、マイナーな音楽を発掘してより多くの人に届けようとすることだけを意味しません。例えば今めちゃくちゃ売れているアーティスト、日本のメジャーなアーティストを、「そんなメジャーなアーティストなんて聴かないよ」という層に向けて魅力を伝える、そういう意味もあると思います。
自分が書いた文章が、不正確かもしれない。情報不足かもしれない。それでも、ある音楽を聴いたときに自分の中に発火した何かを文章にすることで、その音楽の魅力に気づいていなかった人に、その魅力を伝えることができるかもしれない。
それは音楽作品の作り手への支援にもなるし、より良いリスナーエクスペリエンスを広めることにも貢献するでしょう。
何か難しいことを書いてきましたが、要するに何でも好きなように書け、ということです。
自分が好きな音楽に出会ったときに、自分の中で発火した言葉。それをただ書く。正確さを気にするあまり筆が止まるよりも、発火をそのまま書く方が、自分自身にとっても、自分以外のリスナーにとっても、作り手にとっても、より良い結果になるでしょう。
そしてその発火文章のことを、私は音楽レビューと名付けます。
ある音楽作品を聴いたら実家で飼っていた犬のことを思い出した。それでいいわけです。
批評や評論が厳密性を求められた鑑賞ガイドであるなら、音楽レビューは何でもありです。 音楽について書く、ただそれだけ。
