話題になってたし、読んだ、ていうか、オーディオブックで聴けるようになってたから聴いてみたいのですが。
三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を読んだときもそうだったけど、このあたりの文筆家のものは自分は読まなくていいのだな、とというのが感想。
「ファスト教養」を槍玉にあげる本書が、ファスト的な読み物・内容なので、どうもそのあたり、読みながら違和感しかありませんでした。
例えば、ファスト教養へのオルタナティブな提案として引用されているのが千葉雅也だったり東浩紀だったりするので、千葉や東はいわば「ファスト哲学」だし。
「ポスト・ファスト教養の哲学」みたいなことを言っていたけど、哲学ていう言葉を使うんだったら、千葉や東が読んでいるものまでさかのぼってほしい、というのが正直なところ。でないと「ファスト哲学」止まり。
AKB がネオリベ的みたいな、相変わらずサブカル方面のネオリベ批判は、その理解度がファスト経済学だし。
要するにファスト・カルチャーへの違和感を表明する内容だけど、『ファスト教養』という本自体がファスト的と言うか。
それから、「ファスト教養」で槍玉に挙げられている人たちとか、ファスト教養的な状況の社会が、なぜダメなのかもいまいち見えてこない。安易な自己責任論は生きにくくなる、みたいな、そういう話なのかな、と想像はしてみるものの、でもそれは多分、ファスト教養的なコンテンツを発信しているインフルエンサーさんたちの一面でしかないと思いますね。助け合う場面では助け合うみたいな、少なくとも身近な人に対しては共助の精神は持っているはずだと思うんですけどね、自己責任論者のレッテルを貼られている人も。そうでなければ、影響力のあるインフルエンサーとして、周りに人は集まってこないと思うんですけど。
「思う」て、たぶんに印象的で主観的な言い方ですが、でも『ファスト教養』ていう本自体が印象的で主観的だったので、その辺は目をつむってほしい。
それからファスト教養的コンテンツを消費している側の人たちも、教養的コンテンツは「ファスト」に消費しているかも知れませんが、それ以外のところではけっこう必死にいろいろ考えて頑張っていると思うんですよね。
ありていに言えば仕事とかね。
別にレジー氏も、マニアックなロックを聴いている人が良いとか、そういうことを言いたいわけではないと思うのですが、ある意味、文化人類学的な・比較人類学的な(わたしは「都市人類学」という呼称がしっくりくるのですが)視点を導入すると、マニアックなロックを聴いている経営コンサルタントも、仕事終わりにパチンコ行っている現場作業員も、同じくらい真剣に・豊かに考えながら社会に向き合っていると思うんですよね。ただ、ヨーロッパ人と、オーストラリア原住民では思考の論理構造が異なるだけで優劣は存在しないのと同じように、現場作業員と経営コンサルタントでは思考の論理構造が異なるだけで、社会への真剣度に優劣はないと思うんですよ。
ちょっと自分でも書いていて「喩え悪かったな」「わかりにくいな」と思ってるんですけど、おそらくそもそも現場作業員はそもそもファスト教養を必要としているとは思えないし。それはともかくファスト教養を消費している人たちでも、そういったコンテンツ、文学とか映画とか音楽とかなどなどはファスト的に消費しているかも知れませんが、それ以外のところはスローに思考している場面というが、きっと生活の中にあると思うんですよね。
ていうところを考慮すると、ファスト教養的な消費をしている層に、ネガティブな印象を持つのは早計だな、というか。
自己責任論についても、自己責任論者たちは何でもかんでも自己責任と言っているわけではないと思うので。
勝間和代も、自立のための会計、英語、IT の勉強を進めていて、それが行き過ぎるとゆがんだ自己責任論になる、のかもしれないのですが、勝間和代の場合は、そういった勉強をすることで年収が上がる、みたいな発想がそもそもない層に発信してますよね。低所得で、周りに気軽に頼れる人がそもそもいなくて、ていう人に、生活を立て直す手段の一つとして、会計の勉強してみよう、みたいなことを言っていたわけです。
それはそもそも安直な自己責任論ではないし、本当に生活に困っている人が、勝間和代の本を読んで自立に向けて会計の勉強をしている姿に対し、「行き過ぎると歪んだ自己責任論になる」みたいなことを諭す方がグロテスクですよ。
そもそもレジー氏は「就職以来一貫してマーケティング戦略・事業戦略に関わる仕事」なので、現状を打破するために必死に会計の勉強をしている人の心情は理解しにくいのかもしれませんね(というのは言い過ぎか)。
それに、会計も英語もITも、深掘りすれば、十分、ファストに収まらない教養になりますよね。
で、ファスト教養的状況に物申すために、レジー氏が引用しているのがファスト哲学だったりするので。そこ、もう少し深掘ってほしかったんですけど。
教養ってそもそもマッチョだと私は思っていて、ていうか教養がマッチョだというのは私の感想ではなく、事実だと思うんですけど、その最たるものが「文学理論」の界隈で。カラー『文学理論』には、ひとたび文学理論に関わると、一生マウントの取り合いに付き合わなければならなくなる、的なことを書いてあって、それはもう、あるべき教養の姿というか、ただ、教養は教養で強者の論理が働いていて、だとしたら、レジー氏も著作の中で述べていたと記憶しているのですが、教養とビジネスマン、て、親和性高いんですよね。精神構造が。何だったら文学理論の方がビジネスよりタチ悪くて、ビジネスだったら自分に不足している点をおカネ払って他人に手伝ってもらう、てことが可能なのですが、文学理論の場合は、他の人に代わりに読んでもらうみたいなことができないから、それは哲学でも映画でも同じなのですが、教養の方がよっぽど自己責任的ですよ。
だから教養ていうのは恐ろしいですよ。もちろんレジー氏も、オールドタイプの教養への回帰みたいなことは書いてなかったと記憶しているのですが、私も、ファスト教養へのアンチテーゼとして、本来的な教養への回帰というのは、違うのではないか、と思いますね。
とは言え、レジー氏の勧めているのが「ファスト教養より少し考えがいのある本」なので、例えば『イシューからはじめよ』とか。けっきょく程度問題で、質的な差はなくて、ある立場から見たら、さきほどもファスト哲学、なんてことを言いましたが、『イシューからはじめよ』だってファスト的コンテンツですよね。
で、言ったらレジー氏の普段書いている音楽の文章も「ファスト批評」だろうし、ついでに三宅香帆氏の『なぜ働いたら〜』も「ファスト世相切り」ですよね。三宅香帆氏の書評がファスト書評かどうかは、私には判断しかねますが。
ていうか『ファスト教養』と『なぜ働いたら〜』て、取り上げられているものごとがかなり共通してますよね。『ファスト教養』も「ノイズ」みたいなこと言ってますし。こんなに共通してだいじょうぶなのか? て心配になるくらい。率直に言うと「かぶってる」。大丈夫か? ていうくらい。
別にかぶってても良いし、レジー氏がファスト批評だろうが、なんだろうが、それもどうでもいいのですが、「ファスト教養」を槍玉にあげるのであれば、参考元がファスト哲学だったり、言っている内容がファスト経済学なのはその辺は骨太の参照元を挙げてほしかった。あと、教養は、本田圭佑もびっくりなくらい、孤独でマッチョで自己責任の世界なので、「ファスト教養」くらいがみんなとわいわい話せてちょうどいいのでは、とも思います。
そんなことを思う、ナベツネ訃報のあった日に。
そしてナベツネも東大の哲学科出身。
彼はそれこそ、00 年代に既得権益の権化みたいな、老害の象徴的に取り上げられていたけど。そもそもはカントを読む文学青年だった。