おかげさまで、多くの方に拙稿「子離れできなかった父の物語:『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』レビュー」 をお読みいただいております。はてブも最高で 69 (3 月 15 日時点) ということで、久しぶりの「プチバズ」を経験し、ありがたく存じます。
さて、拙稿「子離れできなかった父の物語」は、公開初日の上映直後に、やや興奮気味で書いたものであり、用語が不正確な上に、作品観賞上のさまざまな視点が抜け落ちています。
『シン・エヴァ|』が公開されて 1 週間が経過していくうちに、ネット上に多くの批評・評論・レビュー・感想記事 (あるいは動画) が投稿されました。それらのいくつかを読んで (観て・聴いて) いるうちに、『シン・エヴァ劇場版:||』に関して、自分には抜けていて、かつ興味深い視点があることに気付かされました。
本記事では、『シン・エヴァ』公開後約 1 週間以内にネット上に投稿された批評・評論・レビュー・感想記事 (動画) = つまり「感想戦」のいくつかを読むことで得られた多角的な視点、言い換えれば、自分のなかに得られた『シン・エヴァ劇場版:||』の立体像について、まとめていきます。
目次
登場人物の恋愛事情
これが「抜け落ちていた」と言うと、「お前は本当にエヴァを真剣に観ているのか!?」「ぜんぜんニワカだろ」と鼻で笑われそうですが、そう言われたらそうかもしれません。ただ、その辺は、エヴァに出会った年齢も関係するかもしれません。この点については後述します。
アスカとケンケン
この登場人物の恋愛事情について強く意識させられたのは、以下の動画。
この動画だけではなく多くの『シン・エヴァ』関連記事でも触れられていますが、アスカとケンケンのカップリングが意外だった、というかショック、という感想が多く、個人的に「そこはそんなに印象的なのか…」と逆に驚きました。アスカはシンジと結ばれてほしかった (=「LAS」) と願っていたファンも多いようで、そう願うファンほど、アスカとケンケンのカップリングはショッキングだったようですね。
後述の「メタ視点」でも触れますが、アスカは、象徴としては、庵野監督 (以下、単に「監督」とします) が恋心を抱いていたアスカの声優さんで、ケンケンはエヴァ視聴者である男性オタク。監督は、アスカの声優さん以外の配偶者 (監督の配偶者の象徴はマリ) ができたので、アスカは男性オタクにゆずるよ、という意味として読み解くこともできるようです。メタ的視点を取り入れたら。
こうした監督の私情から推測する読解が正しいかどうかは分かりませんが、とにかく、アスカとケンケンは作中でカップル成立し、ファンの中にはこのカップルに違和感を覚え、納得のいっていない方がいる、というのは『シン・エヴァ』の感想として特徴的だと言えます。
個人的には、正直言うと、あまりエヴァの登場人物に思い入れがないので、「アスカ – ケンケン」問題に引っ掛かりはありませんでしたが、改めてそういう問題があるのだと気付かされると、映画のクライマックスでアスカが大事にしていた人形からケンケンが顔を出したとき「そこか!?」と、そうですね、やっぱりそうですね、鑑賞中にやっぱり引っかかったかもしれないですね。
それよりもっと前の映画序盤でも、第三村でアスカが服を着ていないにも関わらずケンケンが驚きもしていなかったところで「何で驚かないんだろう」とは思いましたが、すごくアスカ・ファンにとって大事な意味があるようには思いませんでした。ただ、『シン・エヴァ』感想戦をいくつか読む中で、「アスカが劇中でシンジに言っていた「私の方が大人になっちゃった」的なセリフって、もしかして、アスカとケンケンが、そういう…」といったような、中学生並みに妄想するようにもなりましたね。だからアスカが服を着ていなくてもケンケンは何も驚かなかったのか…? ていう。
シンジくんが眠っていた 14 年の間に、アスカは第 3 村を何度も訪れ、ケンケンに惹かれて親睦を深めていったのでしょうね。
わたしにはとてもほほえましい、素敵な素敵な展開です。
マリからアスカへの感情
これはどうやら漫画版を読めばその描写があるようなのですが、マリはユイに恋愛感情を抱いていた。ということは、『シン・エヴァ』におけるマリによるアスカへの激しい感情もまた、恋愛感情と言える (かもしれない)。
というのがその通りであれば、かなり興味深い設定だと思います。ただそうなると、物語の本当にラストでシンジとマリがカップル成立する (ように見える) のはどうなのか、と思ってしまいますし、シンジとマリは最後、恋愛的なカップリングというわけではない、というふうに捉えることもできるでしょう。
わたしは最後、マリは保護者的な立場でシンジと手を繋いで階段を駆け上って行った… ように見えるのですが、メタ鑑賞を推める「マリ = 監督の配偶者」派からすると、シンジとマリは恋愛的な関係で最後結ばれる、ということになりますが… そうなるとやっぱり、ではなぜ、マリはアスカにあんなにも思いを寄せていたのか、という疑問は残りますね。
監督の思想・私情と関連づけて作品を鑑賞する、メタ鑑賞推進派からすると、もっと監督のプライベートを書籍で勉強しろ、ということになりそうです。
メタ鑑賞
監督の思想・私情、プライベートと、作品 (特に登場人物) を関連づけて鑑賞するのは、エヴァの醍醐味ですよね。TV シリーズや旧劇でも、良く言えば斬新な、見方を変えれば楽屋落ち的な手法がとられています。そもそもエヴァは、そういう鑑賞の仕方を作品側が求めているので、そういう鑑賞を避けられないと言えます。
こういった鑑賞を「メタ」と、どれくらい言っていいのか、作品が作品空間内で完結せず、楽屋落ち的手法が大胆に・映像に取り入れられているために鑑賞するときも積極的に楽屋事情を取り入れる鑑賞を、「メタ鑑賞」と言っていいのかどうか。この辺の言葉遣いは微妙なところですが、便宜上「メタ鑑賞」という言葉を使います。
どうですかね、「メタ鑑賞」ではない鑑賞なんて成立するのかどうか… 話が進まないので「メタ鑑賞」としましょう。
『シン・エヴァ』感想戦のなかでも、否定的でショッキングな記事ですが、
では、監督の私情と作品の関連が分かりやすく解説されています。
2 つの記事とも、『シンエヴァ』の内容に全く納得のいっていないようです。どうですかね。先述の通り、エヴァはそもそもメタ鑑賞を要求する作品ですし、仮に、監督の私情が登場人物に反映されていたとして、それがその通りだとするなら、それこそ期待されていたエヴァじゃないですかね。作り手は多かれ少なかれ、自身の内情を作品に反映させますし、その反映のさせ方が特徴的なのが、エヴァの醍醐味というか。
「倫理的じゃない」なんていう評価もありますが、倫理的である必要もありませんし…
はじめて「エヴァ」と出会った年齢が、鑑賞方法を左右するかも
以上のような、登場人物の恋愛事情や、監督の私情との関係性といった視点から鑑賞するかどうかは、エヴァに出会った年齢・状況、その後のエヴァとの付き合い方によるのではないでしょうか。
旧エヴァに、ほぼほぼリアルタイムでたとえばハタチ前後、もっと二十代後半とか三十代で出会っていたら、出会った当時に解説本へのアクセス・読解力があるので、監督の私情との関係性といった視点から鑑賞することができるのかもしれません。もちろん、旧エヴァほぼリアルタイム出会い組のなかでも小学生だったり、エヴァ後追い組であっても、作品にドンハマりすれば監督の私生活にも興味を持つでしょうから、メタ鑑賞できるようになるでしょう。
それから、作品の登場人物に特別な感情を抱く、言ってしまえば恋愛感情を抱く、というのも、ある程度年齢を重ねてから、10 代の後半くらいからではないでしょうかね。しっかり自覚的に、登場人物への恋愛感情を抱くのは。小学生くらいのときに、アニメのキャラにまったく恋愛的な感情を抱かなかったのか、と言われたら、そういう早熟な人もいるかもしれませんが。そうなると、アスカに思い入れがあったり、レイに思い入れがあったり、カヲルくんラヴだったり…、というのは、10 代後半、早くてもチルドレンと同じ 14 歳とか? それくらいのときにエヴァに出会ったらそうなる確率が高そうですよね。
この辺、かなり憶測なので「そうじゃないよ!」という人がたくさん出てきそうですが…。
といった点を踏まえて自分のケースを思い出すと、もうめちゃくちゃですが、完全に「ロボットアニメ」の 1 つとして見ていましたね。リアルタイムにやや遅れるくらいで中 1 のときには観てたと記憶しているんですけど、曖昧ですが、あんまり、特定のキャラに強い思い入れはなかったですね。いまもない。それに、中学生だったので、監督が声優の誰それに思いを寄せていた、なんていう情報にアクセスできるわけもなく。だから、本当にめちゃくちゃですけど、ダ・ガーンとか、(魔空戦神) ヤマトタケルとか、そういうのと並列的に観ていて、ただ、後半は衝撃的だった、ていう記憶がありますね。
だから、ローティーンといわれる年齢のうちに、TV 版・旧劇版を全部見たんですけど、その時は、何とも言えない衝撃的な終わり方に感銘を受けつつ、一方で、最後に残ったシンジやアスカ、人造人間だったレイ、パシャったネルフのみんな… みんながちゃんと幸せになる結末というのはなかったのかと、そういう思いをずっと持っていました。そしてゲンドウ、冬月、許せねえな、気持ち悪いな、と思っていました。そういう思いをずっと持って、みんながハッピーになる最後を期待して…、今回の『シンエヴァ』を観ましたので、ほぼほぼ満足というか。
だからミサトさんが自爆しないエンドはなかったのか、とか、あそこまでゲンドウに語らせてあげるんなら、ゲンドウにも成仏以外の幸せな結末を用意してあげなよ、みたいな、そういったモヤっとした気持ちは残りましたね。
であるので、アスカとケンケンの関係性にショックを受けたり、監督の私情を見せられて迷惑といった感想はなかったですね。
カップリングでちょっと違和感だったのは、レイとカヲルくんがラスト、仲睦まじく話しているのが「なんで?」と思いました。あと最後、あの駅のシーン、アスカだけ 1 人じゃなかったですか? 記憶曖昧ですけど。これにも違和感はありました。
そういったところですので、わたしのエヴァの鑑賞はうすっぺらいと言えばうすっぺらいですよね。
槍とかインパクトの考察にすごく興味があるわけでもないので。
登場人物のできるだけ多くが、ハッピーな雰囲気で終幕してくれたら、わたしのエヴァ鑑賞史は、納得のいくかたちで閉じることができたということです。
だから「現代性がない」みたいな、ありがちな感想しか出てこないんですよね。
最後、盛大な「エヴァと自分」語りになってしまいましたが、何度も言っている通り、エヴァの物語がそもそも作り手の私情を読み取るように要求しているような作風ですので、鑑賞者側も鑑賞者の私情を積極的に挟んでいきましょう。
本当は、感想戦自体を感想する「メタ批評」的なこともしたかったのですが、これについてはまた後日。気が向いた時に追記します。