音楽は私たちの感覚を揺さぶり、時に言葉を超えた深い感動を与えます。しかし、その背後には「音楽の論理」と呼ばれる、音楽が持つ内的な結びつきや体系が存在するのをご存じでしょうか?
J. Rimas ら「The Logic of Music」(2024)【Amazon】によれば、音楽の論理は、単に音の並びや形式にとどまらず、音楽が内包する深い哲学的・美学的な意味を解き明かす鍵であるとされています。本記事では、この論文の内容を詳しく紹介し、音楽の本質について考察します。
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J. Rimas ら「The Logic of Music」(2024)【Amazon】によれば、音楽の論理は、単に音の並びや形式にとどまらず、音楽が内包する深い哲学的・美学的な意味を解き明かす鍵であるとされています。本記事では、この論文の内容を詳しく紹介し、音楽の本質について考察します。
続きを読む本書は、1998年のスモールの著作の邦訳である。
本書は以前から気になってはいて積読状態だったのだが、キェルケゴール『キリスト教の修練』における芸術非難を受けて、この非難から芸術を(おおげさでおこがましいが)〈救う〉考え方はないか、と読み始めたのが本書である。 続きを読む
『キリスト教の修練』第3部6では、「キリスト教芸術」非難が行われている。いわく、キリスト教芸術はキリスト教の讃美であり、信従ではないため、真のキリスト教ではない、というのである。
ここでこの著作が分からなくなった。というか、もともとついていけなかったのが、もっとついていけなくなった。
では、われわれが現代親しんでいるキリスト教芸術は、すべて真ではないキリスト教であり、したがってこれを通じてキリスト教の、もっと言えば、キリストの何であるかを理解することなどできない、ということであろうか。そう言って良いのだろうか。 続きを読む
「しかし愛の行き過ぎである」(キェルケゴール『キリスト教の修練』)
いま、キェルケゴールの『キリスト教の修練』を読んでいるのですが、「愛の行き過ぎ」という表現がありました。
「愛の行き過ぎ」って、何だかカッコいいですね。