極めて高い解釈欲求を誘発させる作品、つまり、一言で表すと、〈分からなかった〉。
(ということで、この映画の解釈について、公式あるいは非公式の意見を様々に調べる前に、俺の解釈を試みたい。物語の解釈というのは、おそらく初めて行う)
「妻」(=シャルロット・ゲンスバーグ)は、(おそらく)中世(これもおそらく)女性虐待史を研究している。そして、(これはどう考えても! 確実に!)性行為依存症である。性行為中に我が子どもを亡くすことへの罪悪感(この、「性行為中に我が子どもを亡くすことへの罪悪感」という導入が、俺の現在の境遇と重なるところがあった。だから俺は鑑賞しようと考えたのだ)から、精神崩壊していく。そして、「妻」自身の研究している分野が、研究対象という〈映画の中でのフィクション〉という枠を超え出て、精神崩壊の過程へと〈侵入〉する。言い換えれば、「妻」の精神は、彼女の研究分野という精神世界へ迷い込んでいくのだ。
そう、この作品は、ダーク・ファンタジーと言えるのではないだろうか。現代版のダーク・ファンタジー、鬱的な寓話。なぜなら、「夫」(=ウィレム・デフォー)もまた、「妻」の精神世界へと迷い込むのだから。その証拠に、「夫」は仔鹿、首輪をしている狸、カラスという、「三匹の乞食」を目撃してしまう。そう考えると、かなり作品の形式的な観賞がすっきりする。舞台が現代であり、冒頭の場面で現実性が色濃いため、私たちの現実に即した見方をしてしまうが、実際は(おそらく)監督の(真の、あるいは、或るひとつの)キリスト教的解釈を私たちの世界に投影した、宗教的な寓話なのだ。
そこで、作品の解釈は、必然的に、この作品における監督のキリスト教的解釈とは何か、という問いへと移行する。
『アンチクライスト』というタイトルを額面通り受け取るなら、監督の反キリスト的な意図を汲まねばなるまい。この際、監督が真に反キリスト者なのか、あるいは、信心のあるキリスト者であるが故に、あえてこの作品を撮影したのかは、問われる必要はない。
もう一度、あらすじを整理したい。性行為中に事故的に子どもを亡くしたことにより(「妻」は子どもの事故に、性行為の最中に気付いていたのかもしれない。この点がすでに、反倫理的 ≒ 反キリスト的だ)、精神を病んだ「妻」を、カウンセラーである「夫」が治療しようとする、性行為依存症である「妻」は、治療の最中にも「夫」に性行為を求め、「夫」が拒むと「夫」に暴力を振るう。このように整理すると、反キリスト者は「妻」のように思える。(自分の気付いていたかもしれない)事故的に子どもを亡くしたことによる鬱的精神を抑えるために、性行為を繰り返す、暴力を振るう「妻」は、まさに悪魔的、いや、一般的なイメージでいうところの魔女的だ。
しかし本当に「妻」が作品における反キリスト者であり、そのような「妻」の姿を描く、というのがこの映画の意図なのであろうか(絶対違うであろうが)。
映画のクライマックス、「妻」は「夫」によって殺される。ここで、「妻」よりも反キリスト的な存在者としての「夫」が現れる。真に反キリスト者は、夫なのである!
「夫」による「妻」の殺害は、物語の世界において、「妻」の研究対象であった中世という時代から、男性による女性の暴力という事実が変化していない、これの証拠なのではないか。すなわち、キリスト者であれば、反キリスト的存在者である魔女 = 「妻」をも〈救う〉はずである。しかし夫の選択は、そうではなかった。自らが「救う」べき魔女を、救えないと、自らの死の恐怖に耐えられないと、そう思った瞬間に、魔女狩りと全く同じように、殺害してしまったのだ。〈救う〉者であるところの自称キリスト者は、魔女を殺害することによって、無自覚的に反キリスト者へと陥ってしまったのである!
しかし、夫が反キリスト者であることが、この作品の反キリスト性の本質なのではなかろう。結局この作品は、反キリスト者が反キリスト者に対して反キリスト的行為を働くという、どこをどう切り取っても反キリスト = 『アンチクライスト』なのである。
前述した通り、監督自身が反キリスト者なのかどうかは、この際問われる必要はない(というより、ここまで反キリスト的だと、キリスト教的解釈などという次元ではない)。ただ『アンチクライスト』は、突き詰められた反キリスト的世界観を映像化するとどうなるのか、これを見事に達成した現代的寓話なのである。
以下、解釈ではなく〈感想〉。
- ゲンスバーグが、後半ほとんどパンツを履いていなくて、可哀相で、もう「体当たり演技」とかそういう段階を越している。
- 暴力描写、性行為描写は非常に現実性があり、素晴らしい出来映え。
- しかしその分、ボカシが入っているのが残念。ボカシで一気に気分が萎える(特に、クリトリス? を切り取るシーンは重要なのに! 無修正版を観たいぞ!)
- 「夫」の迷い込む世界の、仔鹿、狸、カラスはあまり現実的ではない。人形を使っていることが分かって残念。