音楽リスナーにとっていちばん重要なのは, 自分にとって最高の 1 曲なり 1 枚なりの, 音楽作品に出会うことです. 流行っているとか, 歴史的名盤とか関係のない, 聴き終わった時に,「これに出会うために音楽を聴き続けていたのだ!」と心の底から感動できるような作品に巡り会えること以上に, 音楽リスナーにとって幸せなことはありません. ただ, その幸せをさらに深めるために, 流行や歴史的名盤について知っておくことは, 無意味ではありません. 世間一般で名作と言われている作品と比べて, いま, 自分が最高だと思えた作品はどの点が優れているのか, これを確かめることで, 最高の音楽と巡り会えた幸せを, より充実させることができるのです.
平成が終わります. 日々, 新しい音楽を血眼になって探しているリスナーにとって, こういうタイミングでないと, 過去の流行を振り返る機会はないでしょう. すごく良い機会だと思います. 平成時代に, 日本で流行した音楽を振り返ってみましょう. 新たな発見があるかもしれません. やっぱり日本のポピュラー音楽なんてつまらないと思うかもしれません. でも, せっかくのタイミングです. 平成のポピュラー音楽を, J-POP の 30 年間を、振り返りたいと思います.
今回, こういった, 本当に短いのですが, 音楽史というのをまとめるにあたって, 取捨選択が非常に難しいことを痛感しました. 以下の文章の中に, このミュージシャンが入っていない, あのミュージシャンが入っていない, といった, 各リスナーそれぞれにとっての「漏れ」があるのは当然です. 私自身にとっても, このミュージシャンは入れたかったけどな〜, と思いながら, 泣く泣カットしたミュージシャンがたくさんいます. その点は, ご了承いただくか, コメント欄などで指摘いただければと思います.
目次
80年代: J-POP 以前
平成がスタートしたのは 1989 年, 80 年代です. 平成時代が始まった当初はまだ, 80 年代から人気を博していたミュージシャンたちが活躍していました. ということで, まずは, 80 年代の日本のポピュラー音楽についてざっと振り返っていきます.
シティ・ポップ
80 年代, カーステレオが普及するに従い, 都会的な雰囲気を持つポップスを表すために, シティ・ポップという言葉が使われ始めました. シティ・ポップは, 海外のAOR やフュージョン, および, 日本のニュー・ミュージックから影響を受けていたジャンルです. シティ・ポップの特徴をそなえた音楽作品は, 時代的には, 1970 年代中盤のはっぴいえんどや山下達郎にまで遡ることができます.
シティ・ポップの流行は 1990 年バブル崩壊によって衰退しましたが, その音楽的特徴は 1990 年代の渋谷系, フリッパーズ・ギターやピチカート・ファイブへと受け継がれました.
80 年代のメインストリーム・ロック
80 年代に活躍したロックバンドと言えば, サザンオールスターズや RC サクセション, 安全地帯, THE ALFEE, THE BLUE HEARTS. 他にも, ロック・バンドでありながら, ルックスの良さからアイドル的人気を博した, チェッカーズ, JUN SKY WALKER (S), ユニコーン. ニュー・ロマンティックから影響を受けたと言われているバンドもあり, 例えば, BOØWY, TM NETWORK, BUCK-TICK らです. ソロでは, 1983 年には尾崎豊がデビューしています.
ボや TM NETWORK, BUCK-TICK らです.
特に, ボーカルの氷室京介, ギターの布袋寅泰を擁する BOØWY の人気は絶大で, 解散した年の 1988 年には 1 年で 3 枚のアルバムが 1 位を獲得するほどでした.
TM Network のサポート・ギタリストだった松本孝弘が B‘z を結成したのが, 1988 年. B’z はのちに, 90 年代を通して絶大なセールスを記録することになります.
80 年代後半には, ガールズバンド, プリンセスプリンセスが成功を収めました. シングル曲「ダイアモンド」と「世界で一番暑い夏」は, 平成元年, 1989 年の年間ヒットチャートでそろって 1 位, 2 位を獲得しました.
ヴィジュアル系が登場したのも 80 年代後半でした. 当時の代表的なビジュアル系バンドとしては, X JAPAN, BUCK-TICK が挙げられます. X JAPAN は, 1989 年にリリースしたアルバム『Blue Blood』で 70 万枚, 1991 年『Jelousy』で 100 万枚以上のセールスを達成しました.
80 年代アイドル: ソロからグループへ
80 年代のアイドルは, ニュー・ミュージック的な音楽性を受け継ぎました. 1980 年, 松田聖子は「風は秋いろ」でオリコン週間チャート 1 位を獲得. 今作以降, 24 作連続で週間チャート 1 位を獲得し, ピンクレディーの記録を塗り替えました. 松田聖子へは, 細野晴臣も楽曲を提供しています.
80 年代に活躍した女性アイドルとしては, 中森明菜, 岡田有希子, 小泉今日子, 南野陽子, 菊池桃子, 荻野目洋子, 中山美穂, 本田美奈子, 森高千里らを挙げることができます. 岡田有希子は 1984 年にレコード大賞で最優秀新人賞を受賞, 中森明菜は 1985 年と 86 年にレコード大賞の大賞を受賞しました. 小泉今日子や森高千里は, 90 年代初頭においてもヒット曲をリリースしました.
85 年には, 秋元康プロデュースのおにゃんこクラブがデビュー. おにゃんこクラブは多数のソロ・アイドルを輩出していて, なかには90 年代にかけてヒットを生んだ工藤静香もいます
80 年代のジャニーズ事務所といえば, 87 年, 光 GENJI がデビュー. ローラースケートを駆使したパフォーマンスで, 一斉を風靡しました. チャゲ&飛鳥の作詞作曲による「パラダイス銀河」は, 1988 年第 30 回日本レコード大賞を受賞. 光 GENJI のバックダンサーのなかかには, のちの SMAP のメンバーがいました.
1988 年, 女性アイドル・デュオ, Wink がデビュー. それまでのアイドルと違い,「笑わない」キャラクターで人気を博し, 当時最も人気のあった女性アイドル・デュオ, BaBe の人気を超えたと言われています. Wink「淋しい熱帯魚」は, 平成元年, 1989 年のレコード大賞を受賞しました.
WInk がレコード大賞を受賞した 1989 年, CoCo が「EQUAL ロマンス」でデビュー. この楽曲はアニメ「らんま 1/2」のエンディングテーマとして人気を博しました. 同年 11 月には, 小室哲哉がソロ曲で, 松田聖子の連続 1 位記録を 25 作で止めました.
1989 年は 歌番組「ザ・ベストテン」が終了した年, そして, 美空ひばりが逝去した年でした.
90 年代: J-POP の誕生
J-POP という言葉は, ラジオ局 J-WAVE 内で, 1988 年後半から 1889 年頃に生まれたと言われています. J-POP は当初, J-WAVE 内でのみ用いられた, 日本の特定の、メインストリーム・ポピュラー音楽に対する名称でした。現在のような、演歌以外の日本のメインストリーム・ポピュラー音楽をほぼすべて「J-POP」へカテゴライズし、この「J-POP」のなかにロックやラップ、アイドルといったサブカテゴリーが存在するといった状況に比べると、かなり限定的な用語だったのです.
J-POP が世間一般に用いられるようになったのは, 90 年代初頭以降. レコード店であるタワーレコードが, J-POP コーナーを開設したことがきっかけでした. これ以降, J-POP は, 演歌以外の, 日本のポピュラー音楽を広くカバーする言葉へと成長していきました.
ダブル・ミリオンの達成
90 年代, 日本の音楽業界は, マーケティング手法として「タイアップ」を採用するようになり, 結果, 多くのミュージシャンがダブル・ミリオンを達成した時期になりました. ダブル・ミリオンを達成したシングル曲としてはたとえば, 小田和正「ラブストーリーは突然に」(1991), チャゲ&飛鳥「Say Yes」(1991)・「YAH YAH YAH」(1993),
米米クラブ「君がいるだけで」(1992), Mr.Children「Tomorrow Never Knows」(1994)・「名もなき詩」(1996), globe「DEPERTURES」(1996) などが挙げられます. アルバムではトリプル・ミリオンを達成した作品が生まれました. Dreams Come True『The Swinging Star』(1992) は, 日本ポピュラー音楽史上初めてトリプル・ミリオンを達成したアルバムです. 1994 年には Mr.Children が, Dreams Come True の記録を打ち破る 340 万枚の売り上げをアルバム『Aromic Heart』で達成しました.
一発屋
タイアップというマーケティングの結果, 一発屋になってしまうミュージシャンも少なくありませんでした. 例えば, 大事マンブラザーズバンド, KAN, The 虎舞竜です. ただ, 一発屋と言われてるミュージシャンの中には, 実際は複数曲オリコン週間チャート上位へのランクインを達成しているにも関わらず, 代表曲があまりにも売れすぎたために一発屋扱いされてしまっている人たちもいます.
ビーイング系
特に、1990 年から 93 年まではビーイング系が席巻しました. B’z, TUBE, B.B.Queens, T-BOLAN, ZARD, WANDS, 大黒摩季, DEEN, FIELD OF VIEW らです。特に B’z の活躍は目覚ましく, それまで松田聖子が持っていたオリコン週間チャート連続 1 位記録を打ち破ったほどでした.
ちなみに「夏に活動する」バンド, TUBE は, ビーイング系にカテゴライズされますが, レコード会社はソニーです.
夏のイメージのある TUBE に対し, 冬の女王と称されたのが広瀬香美でした. ビーイング系ではありませんが, 同時期のポップスのヒットメイカーでした.
小室ファミリー
90 年代前半は、小室哲哉がプロデューサーとして頭角を現し始めた時期でもありました. 1994 年に TM NETWORK が解散. その後, 1997 年にかけていわゆる「小室ファミリー」という, ダンス・ミュージック一派が日本ポピュラー音楽シーンを席巻しました. いま, 小室ファミリーと言えば, trf, 安室奈美恵, globe, 華原朋美, 鈴木亜美, といったメンバーを思い出しがちですが, 当時は彼・彼女らに加えて, 篠原涼子, そして内田有紀も加わることがありました. 当時の小室哲哉は, ミリオン・セラーを 20 曲も連発. 1997 年にリリースされた安室奈美恵「Can You Celebrate?」は 200 万枚以上の大ヒット, アルバムでは globe『globe』(1996) が 400 万枚を売上げ, Mr Children『Atomic Heart』の記録を打ち破りました. 小室ファミリーの快進撃は 1998 年まで続きました.
小室全盛期において最も重要なミュージシャンは, やはり安室奈美恵でしょう. 安室奈美恵は「沖縄アクターズスクール」出身ですが, 同スクールの出身者として, 同時期にはSPEED, MAX が活躍しました.
ちなみに, 沖縄出身という視点からでは, Cocco が, 室奈美恵「Can You Celebrate?」をリリースした 1997 年にメジャーデビューしています. 同じ 97 年には, 男性アイドルグループ DA PUMP がデビュー. 女性デュオの Kiroro がデビューしたのは, 翌 98 年でした.
なお安室奈美恵は, 小室プロデュース当初はダンス・ミュージック路線でしたが, 徐々に R&B へ音楽性を変え, 2000 年代に入ると小室プロデュースの手から離れることになりました.
小室哲哉プロデュースのなかでも安室奈美恵, globe に次ぐビッグ・セールスを記録したのは, お笑い芸人・ダウンタウンの浜田雅功 (H jungle with T)でした. 浜田雅功は小室哲哉以外にも, 90 年代に奥田民生, 00 年代には槇原敬之, そして 10 年代に中田ヤスタカから楽曲提供を受けています. そればかりではなく, ダウンタウンとしては坂本龍一のプロデュースを受けています. また, バラエティ番組「ごっつええ感じ」から, コミック・ソングをヒットもさせています. バラエティ番組発のヒットや, お笑い芸人によるネタ曲のヒットはたくさんありますが, 浜田雅功は, 平成という時代を通じて, 印象に残る音楽作品を発表し続けました.
プロデューサー時代
小室哲哉が全盛期だった頃, 音楽プロデューサーがミュージシャンと同じくらい注目を集めました. My Little Lover, Mr. Children, Chara をプロデュースした 小林武史 は, 小室哲哉とともに 90 年代後半音楽シーンの一時代を築き, 当時は TK 時代とも言われました. その他, 伊秩弘将 (SPEED, deeps など), 織田哲郎 (B.B. クイーンズ, 相川七瀬), 浅倉大介 (T.M. Revolution), 奥田民生 (PUFFY) らがプロデューサーとして活躍しました. こうした潮流とは少し異なるかもしれませんが, 坂本龍一も, 中谷美紀のプロデュースで商業的成功を収めました.
坂本龍一は 99 年に「energy flow」で, インストゥルメンタル曲として初めて週間チャート 1 位を獲得しました.
1997 〜 1999 年: 商業的ピーク
小室ファミリーの全盛期が過ぎても、日本の音楽シーンの商業的成長は続きました. まずは, 1997 年 10 月 にリリースされたGLAY のベスト盤です. このベスト盤は, globe 1 st アルバムの売上げ記録をさらに塗り替え, 500 万枚に迫るセールスを達成しました。しかし次の年, B’z もベスト盤をリリースし, 500 万枚を超えるセールスを達成, GLAY の記録をさらに塗り替えました. 極め付けは宇多田ヒカル『First Love』. 1999 年にリリースされた今作は, 700 万枚を超えるヒットを記録し, オリコン史上最も売れた CD として, 現在もまだ記録は破られていません.
ビジュアル系の隆盛
90 年代後半は, ビジュアル系ロックが隆盛を極めました. 特に流行したのが, GLAY, LUNA SEA, そしてL’Arc〜en〜Ciel でした. 特に GLAY は globe のCD 売上げ記録を打ち破っただけではなく, 1999 年 7 月, 幕張の特設会場で, 単独としては日本のコンサート史上最多 20 万人を動員するコンサートを開催しました.
GLAY が当時の最多売上記録を達成することになるベスト盤をリリースする前月, つまり, ビジュアル系大流行の前夜に, X JAPAN が解散を発表しました. 1998 年には, X のメンバーだったギタリストの hide が急死. hide の告別式には 50,000 人ものファンが詰めかけました. hide の死後にリリースされたシングル「ピンクスパイダー」およびアルバム『Ja, Zoo』は, それぞれミリオンセラーを記録しました.
90 年代ロック: メロコアの成功
ロックバンドで人気を集めていたのはビジュアル系だけではありません. スピッツやエレファントカシマシ, ウルフルズ, シャ乱Q, THE YELLOW MONKEY らが, 90 年代中盤以降ブレイク. JUDY AND MARY, the brilliant green は女性ボーカルのロック・バンドとして, やはり 90 年代中盤から後半にかけて人気を博しました.
90 年代後半には, メロコアが人気を集め始めました. 特に Hi-Standard は, 97 年にアルバム『Angry Fist』(1997) でオリコン週間チャート 4 位を獲得, さらにロック・フェスティヴァル「AIR JAM」を開催しました.
97 年は第 1 回 FUJI ROCK FESTIVAL が開催された年でもあります. FUJI ROCK 以降, 00 年代を通して徐々にロック・フェスティヴァルが音楽ファンの夏の風物詩として浸透して行くことになりました.
90 年代のアイドル: ジャニーズ系とハロー! プロジェクト
90 年代以降に活躍したジャニーズ系は, SMAP, TOKIO, V6, Kinki Kids, そして嵐. SMAP は残念ながら解散してしまいましたが, SMAP 以外はグループとして, ソロとして現在まで第一線で活躍しています. このなかではやはり SMAP です. SMAP ( SMAP だけではないんのですが) は, グループで, そしてソロでも, テレビタレントとして活躍しました. 特に木村拓哉は, キムタクの愛称で SMAP のなかで最も人気のあるメンバーとし親しまれていました.
SMAP への楽曲提供がきっかけでブレイクした男性ソロミュージシャンもいます. 山崎まさよしは「セロリ」(1997) を作詞作曲, スガシカオは「夜空ノムコウ」(1998) を作詞しており, これがきっかけになり知名度を上げました.
90 年代後半, 女性アイドルがグループとして流行し始めました. シャ乱Qはつんくプロデュースによるモーニング娘。です. モーニング娘。のブームは、ハロー! プロジェクトへ発展し, 多くの派生グループ, 姉妹グループが誕生しました. なお松浦亜弥は、ハロー!プロジェクトのなかでは珍しくソロシンガーとして人気を集めました.
女性ソロシンガー: 宇多田ヒカル vs 浜崎あゆみ
90 年代終盤から 00 年代序盤にかけては, 女性ソロシンガーが流行した時代でした. 宇多田ヒカル, 浜崎あゆみ, MISIA, 倉木麻衣, 中島美嘉, そして椎名林檎や aiko らがオリコンチャート上位へランクインしました. 彼女らは自ら作詞したり, 作曲までこなす者もいました. 宇多田ヒカルと浜崎あゆみは当時, ライバル的な関係と仕立て上げられていました. しかし本人たちにしてみればこの対立は, マスコミが煽っただけだそうです.
ヒップホップがメインストリームへ
1990年代末の日本のポピュラー音楽史にとって, 忘れてはいけないのは, ヒップホップの日本の音楽メインストリームへの登場です. Dragon Ash ft. Zeebra, Aco による「Grateful Days」は, オリコンチャートで 1 位を獲得. これを皮切りに 00 年代にかけて, ラップを取り入れたミュージシャンが J-POP シーンに多数登場しました.
これに先立つ1995年には, EAST END × YURI が「DA.YO.NE.」で社会現象を巻き起こしましていましたが, ただ, 「DA.YO.NE.」の週間チャート最高順位は 7 位でした).
00 年代: J-POP の多様化と CD セールスの減退
浜崎あゆみのピークと avex
2001 年から 2003 年, 浜崎あゆみが日本レコード大賞を 3 年連続受賞するという快挙を達成. 当時の浜崎あゆみは, 名実ともに日本のトップ・ミュージシャンでした. 浜崎あゆみが所属していたのは avex ですが, その時の avex には, 浜崎あゆみ一辺倒な経営戦略はリスクを伴うという懸念がありました. しかし, しかしこのような懸念は, 大塚愛や倖田來未, そしてEXILEらが, 2000 年代中頃までに人気を獲得するに連れて, 徐々に解消されていきました. また, 当時の avex 所属の人気歌手として, 韓国人出身の BoA がいましたが, 彼女は韓国籍のまま日本の音楽シーンで成功を収め, その後の韓流ミュージシャン人気の先駆け的な存在になりました.
ジャパニーズ・ヒップホップ, R&B
90 年代終盤に, MISIA や宇多田ヒカルが本格的な R&B でチャート上位へランクインし, さらに Zeebra が Dragon Ash と組むことでラップをチャート 1 位へ送り込んだことを皮切りに, 00 年代以降, ヒップホップと R&B による日本のメインストリーム・ポピュラー音楽への影響が本格的に強まりました.
2001 年, R&B デュオの Chemistry による 1st アルバム『The Way We Are』が, 発売初週で 100 万枚以上を売上げ, 初登場 1 位を記録. 平井堅も R&B シンガーの枠へ入るのですが, 2006 年のリリースしたベスト盤は, 200 万枚以上を売上げ, オリコン年間チャート 1 位を記録しました. avex 系のダンス・ヴォーカル・ユニット, EXILE も, R&B 色の強い J-POP と言えます. 彼らにも 100 万枚以上売上げた作品があり, 2008 年には,『EXILE love』がオリコンアルバム年間チャート 1 位になりました.
ヒップホップでは, グループではリップスライム、SOUL’d OUT らが, ソロでは KREVA や SEAMO がオリコンチャート上位へランクインするようになりました.
ヒップホップだけではなく、レゲエに出自をもつミュージシャンによる楽曲に対しても, 日本では, ラップとして扱われました. レゲエに出自をもつミュージシャンとしては, ケツメイシ, 湘南乃風, Def Tech らがヒットを飛ばしました. Funky Monkey Babys はケツメイシのラジオ番組への楽曲投稿がきっかけになり, やがてヒットチャートの常連となったミュージシャンでした. ラップ・ブームとは少しトレンドが異なりますが, 日本にけるレゲエのヒットソングとしては, 三木道三「Lifetime Respect」(2001) もあります.
m-flo は, ヒップホップやレゲエという枠組みに限定せず, より広く「クラブミュージック」というジャンル全般においてラップを取り入れ, J-POP のフィールドで存在感を示しました.
オレンジレンジは, ロックバンドにヒップホップの要素を取り入れた音楽性で商業的に成功. 2005 年にリリースした『MUSIQ』は 260 万枚を売上げ, その年のアルバムチャート 1 位を達成しました.
童子-T は, 90 年代初頭から活動していたラッパーでしたが, 00 年代後半, 積極的なコラボレーションに取り組みました. 清水翔太, 郷ひろみ, 加藤ミリヤ, そして青山テルマらとコラボレーションしたしたアルバム『12 Love Stories』は, 商業的成功を収めました.
ハルカリは, 女性として初めて, オリコン・トップ 10 入りを果たしたヒップホップ・ミュージシャンです. 2008 年には 2 度の海外ライブも実現しており, シカゴのアニメ・セントラル・フェスティバル, ニューヨークの ジャパン・デイに出演しました.
ニュー・フォーク
19 やゆず, コブクロといったフォーク・デュオが流行したのも, この年代でした. 彼らの音楽は「ニュー・フォーク」あるいは「ネオ・フォーク」と呼ばれています. 2007 年 10 月にリリースされたコブクロのベストアルバムは, 21 世紀に入って最初の, 男性アーティストによる 300 万枚セールスを達成したアルバムになりました. コブクロは, 2008 年 1 月にリリースした『5296』で, 浜崎あゆみが 8 作連続で続けいていた週間チャート初登場連続 1 位を途絶えさせて 1 位になりました. コブクロは 00 年代後半に人気を集めた女性ソロシンガー, 絢香とコラボレーションもしています.
デュオではありませんが, 弾き語りの路上ライブ出身という共通点で言えば, いきものがかりもネオ・フォークの枠組みへ入れることができるでしょう.
また, 女性シンガーという点では, YUI はデビュー当初, アコースティック・ギターによる弾き語りスタイルの, 女性ソロシンガーとして人気を集めました.
青春パンク
90 年代後半に Hi-Standard が切り拓いたメロコア・ブームは, 00 年代初頭にモンゴル 800 の大ブームへと結実しました. 2001 年にリリースされた 2nd アルバム『message 』は, ダブルミリオンを超えるセールスを記録しました. モンゴル 800 の成功に以降,「青春パンク」へカテゴライズされるバンドが多数頭角を表しました.
青春パンクとは系統が異なりつつ, 同じようにメロコア的音楽性をもったロックバンドに ELLEGARDEN がいます. ELLEGARDEN は 2006 年のアルバム『ELEVEN FIRE CRACKER』でオリコンチャート 1 位を獲得しました.
中堅・ベテラン勢の活躍
00 年代に入っても, Mr.Children や B’z, Southern All Stars, そして GLAY といった 90 年代 (あるいはそれ以前) から活躍していたロック・バンドは, まだまだ活躍していました. 例えば Mr. Children は, 2004 年のレコード対象を「Sign」で獲得. さらに 2007 年のアルバム『HOME』(この年のアルバム売上げ No.1) リリース後, オリコン歴代シングル・アルバム総売上げ第 2 位を達成しました. ちなみに 1 位は, もちろん B’z.
こうしたベテラン・中堅ロックバンドの活躍を支えていたのは, テレビ番組とのタイアップでした. サザン最大のヒット曲「TSUNAMI」は, バラエティ番組「ウンナンのホントこ」の1コーナーである「未来日記」のテーマソングでした. 同「未来日記」へは, 福山雅治, GLAY も楽曲提供をしていました.
ロック・バンド以外でも, 00 年代に入って, ベテランに位置付けられるミュージシャンの活躍が目立ちました. 小田和正は 2005 年にリリースしたアルバム『そうかな』で, オリコン週間チャート 1 位を獲得. さらに2007 年のシングル「こころ」でも週刊チャート 1 位を獲得し, 石原裕次郎のもっていた最年長オリコンシングルチャート 1 位記録を塗り替えました. 2008 年には竹内まりやのベスト盤が, オリコン週間チャート 1 位を獲得. 女性アーティストの最年長記録を打ち立てました.
00 年代のロックバンド: ロキノン系の台頭
ベテラン勢以外のロックバンドも, もちろん台頭してきました.
99 年にデビューしたポルノグラフィティは, 00 年に「サウダージ」でオリコン週間チャート 1 位を獲得以降, チャート上位の常連者になりました.
のちにいわゆる「ロキノン系」に括られるロックバンドがチャート上位へ食い込むようになったのも、この時期でした。2001 年には, BUMP OF CHICKEN が「天体観測」で, 2003 年には ASIAN KANFU GENERETION が「君という花」でそれぞれ商業的な成功を収めました. マキシマムザホルモンは, バンプ, アジカンに比べさらにラウドなロック・バンドですが, オリコン週間チャート・トップ 10 へシングル曲を送り込みました.
00 年代のジャニーズ系
00 年代もジャニーズ系の勢いは止まりませんでした. 2001 年に SMAP はベスト盤『SMAP Vest』をリリース, 初週で 100 万枚以上をう売上げました. ベスト盤リリース後も SMAP の人気が衰えることなく, 2003 年のシングル「世界に一つだけの花」が 200 万枚の売り上げを達成, オリコン年間チャート 1 位を獲得しました. この楽曲は, SMAP 解散騒動の影響で, 2016 年までに 300 万枚を売上げ, 平成において最も売上げの多いシングル曲になたことも記憶に新しいですね. 「世界にひとつだけの花」は, 90 年代に「どんなときも」や「恋なんてしない」をヒットさせた槇原敬之です.
2007 年には, KinKi Kids が, デビュー以来 25 作連続オリコンチャート初登場 No.1 という記録で, ギネスを獲得. ちなみに記録は順調に伸びていて, 2018 年に 40 作連続 1 位を達成しました. 嵐は 2001 年, ジャニーズ事務所によって嵐のためのレーベル, J-Storm が設立されました. 2009 年のベスト盤では, オリコン年間チャート 1 位を獲得しています.
ジャニーズ事務所は, Hey! Say! JUMP, タッキー&翼, NEWS, 関ジャニ∞, KAT-TUN らといった, 新しいグループも次々に結成. 2006 年にリリースされたKAT-TUN のデビューシングル「Real Face」は, 100 万枚以上を売上げ, その年の年間チャート 1 位を獲得しました. 2007 年には Hey!Say!JUMP 7 が, 男性での最年少・週間チャート 1 位記録を塗り替えました. ちなみに当時, 女性の最年少週間チャート 1 位はミニモニだったのですが, 2009 年に, 中山優馬 with B.I. Shadow がミニモニの記録をも打ち破りました. なお Hey!Say!JUMP は, 最年少での東京ドーム公演の記録も打ち立てています. このようなジャニーズ系の快進撃の結果, 2008 年の年間シングルチャートでは, 男女混合グループを除くと, 上位 30 組のうち女性ミュージシャンは 1 人だけという事態になりました. ちなみにそのとき, 唯一 30 以内に入っていたのが, 安室奈美恵 (「60s 70s 80s」) でした.
演歌の復活
90 年代には, 年間チャート・トップ 100 へのランクインすらなかった時期もあった演歌ですが, 00 年代以降, 徐々にチャートへ復活してきました. 99 年から 00 年にかけて大泉逸郎「孫」がロングヒット, 00 年には氷川きよしが「箱根八里の半次郎」でデビューしました. ちなみにこれに先立つ 98 年, モーニング娘。の中澤裕子が演歌歌手としてソロ・デビューし, オリコン週間チャート 1 位を獲得しています. 2004 年には, ジャニーズ事務所から関ジャニ∞が,「浪花いろは節」でデビュー. 当初は関西限定の発売でしたが, のちに全国発売し, オリコン週間チャート 1 位を獲得しました. 翌年 2005 年, 氷川きよしが「初恋列車」でオリコン週間チャートで 1 位を初めて獲得. 2006 年には五木ひろしが, 22 年ぶりにオリコン週間チャートのトップ 10 入りを果たしました. 2009 年には秋元順子が「愛のままで…」でオリコン週間チャート 1 位を獲得し, ソロ・ミュージシャンによる最年長 1 位記録を打ち立てました.
ネオ渋谷系
00 年代に入り, 一部のミュージシャンがネオ渋谷系へカテゴライズされるようになりました. tetrapletrap, Plus-Tech Squeeze Box , Capsule らです. Capsule のメンバーである中田ヤスタカは, 後に Perfume をプロデュース, 2008 年 4 月には, テクノポップとして初めて, アルバム『GAME』でオリコン週間チャート 1 位を獲得しました. 中田ヤスタカは その後, プロデューサーとして頭角を現し, 10 年代にはきゃりーぱみゅぱみゅをヒットさせました.
カバー曲の流行
00 年代はカバー曲が流行した時代でもありました.
2001 年の 2 月, ウルフルズによる坂本九「明日があるさ」のカバーが, オリコン週間チャート 5 位に登場. 3 月には同曲を, 吉本興業によるスペシャルユニット「Re: Japan」がカバーしたバージョンがリリースされ, オリコン週間 1 位を獲得しました.
演歌歌手としてデビューした後, ポップスへ転向した島谷ひとみは, 2002 年にヴィレッジ・シンガーズのカバー「亜麻色の髪の乙女」でブレイク. 島谷ひとみはこの楽曲以前にも, カバー曲をシングルでリリースしていました.
2007 年には, テノール歌手, 秋川雅史による「千の風になって」が 100 万枚を超える大ヒット. クラシック音楽のシングル曲として初めてオリコン週間 1 位を獲得しました. この楽曲は, 西洋の詩「Do not stand at my grave and weep」をもとに, 新井満が作曲したもので, 新井自らも 2003 年に CD をリリースしています. ちなみに元になった詩は, 1985 年の坂本九の告別式の際, 永六輔が朗読したものです.
00 年代中盤には, 徳永英明が女性シンガーのカバー・アルバムをシリーズでリリース. 2007 年 8 月には,「Vocalist 3」がオリコン週間 1 位を 2 週連続して獲得しました.
2010 年には JUJU, 倖田來未 がカバーアルバムをリリース. JUJU はオリコン 1 位を獲得しました. また, Superfly はシングルのガップリング曲でカバーした洋楽を集め, シングル曲の特典企画としてリリースし, オリコン 1 位を獲得しました.
桜ソングの流行
00 年代からみられるようになった音楽的現象として, 桜ソングの流行が挙げられます. 2003 年, 森山直太朗の「さくら(独唱)」がロングヒット.
同じ年の末に河口恭吾が「桜」をリリースし, 2004 年にかけてヒットしました. 2005 年にはすでに知名度のあったケツメイシが「さくら」を, 同年 12 月にはコブクロが「桜」をリリースし, それぞれ, ミュージシャンにとっての代表曲の 1 つになるまでヒットしました.
アニソン, ボカロ・カルチャー
00 年年代後半から 10 年代前半にかけて以降, 日本の音楽シーンにおいて「アニソン」が無視できない存在になってきました. 2007 年には, 声優・藤田咲の声をサンプリングしたボーカロイドソフト、初音ミクが発売. ニコニコ動画では初音ミクを使用した楽曲が多数投稿されました. 投稿者たちはボカロPと呼ばれ, ボカロPの中からは, のちに, メジャー・レコード会社と契約する者も出てきました. たとえば Livetune は 2008 年 8 月に, ヴィクター・エンターテイメントからアルバム『Re: Packege』をリリース. Supercell は 2009 年 3 月に, ソニーからセルフタイトルのアルバムをリリースしています.
2009 年, 声優の水樹奈々によるアルバム『Ultimate Diamond』が, 声優のアルバムとして初めて, オリコン週間チャート 1 位を獲得. 同じ年には, アニメ『けいおん!』に登場する架空のバンド, 放課後ティータイムによるミニアルバムも, 週間チャート 1 位を獲得. アニメキャラクターによるアルバム初という快挙を達成しました. 2010 年には, 音楽レーベル Exit Tunes がリリースしたコンピレーションアルバム『Vocalogenesis feat. Hatsune Miku』が, ボーカロイドを使用したアルバムとして初めて, オリコン週間チャートで 1 位を獲得しました.
ライブ動員数の増加
00 年代以降, 物理媒体である CD の売上げはどんどん減少していきます (その代わり, 「着うた」などのダウンロード数が増加するのですが). 一方で, ライブ動員数は増加傾向にありました. ライブ活動でもベテラン勢は健在で, 2006 年にロック・イン・ジャパン・フェスへ出演した矢沢永吉は, 2007 年に前人未到の日本武道館 100 公演を達成. 安室奈美恵は, 2008 – 09 年に行ったツアーで 45 万人を動員し, 日本人ソロ女性ミュージシャン史上最大規模になりました.
CD から着うたへ
2002 年 12 月, au が着うたサービスをスタート. その売上は急速に成長して, 2007 年の宇多田ヒカル「Flavor of Love」は 700 万ダウンロードを記録しました. 2007 年 10 月には, 宇多田ヒカルのレコード会社が, 宇多田が世界で初めて, 1 年のうちに 1000 万ダウンロードを記録したミュージシャンになったとはっぴょうしました. IFRI の 2009 年のレポートによれば, 2008 年に青山テルマ「そばにいるね」が820 万ダウンロード, Greeeen「キセキ」が620 万ダウンロードを記録しました.
2008 年には西野カナがデビューしていますが, 彼女も着うたダウンロード数の多いミュージシャンでした. 西野カナは 10 年代以降も活躍が続きました.
2010 年代: AKB系 とジャニーズの支配から, 新しいロックバンドの誕生へ
AKB系 のランキング支配
2010 年に入り, AKB 48 がオリコンチャートで存在感を示し始めました. 彼女たちのシングル曲は, 2010 年以降, すべて週間チャート初登場 1 位を獲得しています.
00 年代末以降, それまで以上に多くのアイドル・グループが登場しています. 10 年代のアイドル・グループで (現在までで) 成功を納めているのは, Hey Say JUMP!, AKB 48 (を筆頭にする AKB 系) , 嵐, 関ジャニ∞, ももいろクローバーZ らでしょうか.
きゃりーぱみゅぱみゅは、原宿を中心に活動するファッションモデルでした. しかし, 2011 年、中田ヤスタカプロデュースによる「PON PON PON」でデビューすると瞬く間に世界中で話題になりました. ケイティー・ペリーやアリアナ・グランデ といった 洋楽のビッグアーティストが注目したからです (ピコ太郎に似てますね!). きゃりーぱみゅぱみゅは, 以降も「にんじゃりばんばん」や「ファッションモンスター」といったヒットソングを世に送り出しました.
2014 年にはももいろクローバーZが, コンサートツアーに48 万人の動員を記録. 安室奈美恵の記録を塗り替え, 女性アーティストによるツアー動員数歴代 1 位を獲得しました.
グループアイドルブームはアニソンへも波及. アニメ『ラブライブ!』から生まれたグループ μ’s は, 紅白歌合戦への出場を果たしました.
EXILE 系ですが, テン年代以降もボーカル・ダンス・グループとして, アイドル的人気を集めています. 三代目 J Soul Brothers は EXILE に匹敵するほどの人気を集め, また, 女性グループである E-girls も支持を受けています.
10年代のロック: アフロ・ミュージックへの接近
10 年代は, いわゆる「ロキノン系」に括られるロックバンドが, さらに活動の幅を広げた時期です. サカナクション, SEKAI NO OWARI, ゲスの極み乙女らは, オリコン週間チャート 1 を獲得するアルバムをリリースし, さらに紅白歌合戦への出場も果たしました.
00 年代中盤から活動していた ONE OK ROCK は, 15 年にリリースしたアルバム『35xxxv』以降, 3 作連続でオリコン週間チャート 1 位を記録. さらに海外で積極的にツアーをしています.
RADWIMPS は, 00 年代の初頭からロック・リスナーの人気を集めていましたが, 2016 年公開映画『君の名は』のタイアップ曲「前々々世」で知名度をさらに広げました.
こうしたロキノン系とは異なるタイプのバンドも, テン年代後半に頭角をあらわしてきました. Cero, Suchmos, そして King Gnu です. テン年代後半はまだまだ現在進行形ですので, 今後, どのようなポピュラー音楽史的な位置付けを与えられるかは分かりませんが, 彼らに共通の特徴としては, 21 世紀以降のアフロ・ミュージック (ジャズやソウル, ヒップホップなど) からの直接的な影響を聴き取れるところにあります.
10 年代の男性ソロ
男性ソロ・シンガーも, テン年代後半, 現在進行形で日本のポピュラー音楽シーンを牽引しています. 彼らも, 今後, どのような位置付けをされていくのかは分かりませんが, ここでは, 星野源、三浦大知、米津玄師を平成最後の 5 年間を代表する男性ソロ・シンガーと位置づけることにします. この三者は出自も音楽性も全く異なっています. 星野源はサブカル系ロックバンド, SAKEROCK のメンバーで, 三浦大知は 90 年代沖縄系ダンスユニット, Folder 5 の出身, そして米津玄師はボカロ・カルチャー出身です. 00 年代までのように,「このジャンルにはこの 3 人!」というふうにはいかなくなってきています.
J-POP にみられる変化と不変性
以上, ざっとですが, 平成のポピュラー音楽を振り返ってみました. 取り上げられなかったジャンルとしては, 浜田雅功以外のお笑い芸人による音楽, だんご三兄弟などの児童向けの音楽, 10 年代の K-POP ブーム, そして日本で流行した洋楽ですね.
この記事を作りながら, もちろん, 平成のポピュラー音楽のメインストリームを聴き直してたんですが, 昔のこの頃が良かった! 的な再発見よりも, 現在進行形の音楽がめちゃくちゃかっこいいと再認識の方が強かったですね. 特に 2018 年は, ここに挙げなかったミュージシャンも含め, 日本人ミュージシャンのスゴい作品がたくさんリリースされました. 今年に入っても, King Gnu なんかはやっぱり, 今までの日本のメインストリームにはなかったような音楽で, こういうのも「アリ」になってるだな, と嬉しくなりました. こういうスゴい作品って, もちろん, 日本のそれまでのミュージシャンからの影響もあるでしょうけど, やっぱり, 現在進行形の洋楽をよく研究しないと生まれてこないのではないでしょうか. これは別に洋楽コンプレックスとかそういう意味ではなくて, 何か新しい潮流が世界のどこかで生まれたら, それを真剣に楽しんでいけるような態度というのが, 日本に限らず, どこの国でも地域でも, 音楽を豊かにする, そういうことだと思います. たまたま, 新しいジャンルが, 日本ではない国, 東アジアではない地域で生まれた, ていうだけで, かっこいい音楽に, とくにポピュラー音楽に, 国とか地域とか, あまり関係ないのではないでしょうか.
もう 1 つ. この 30 年間の日本の流行したポピュラー音楽をざっと聴いて, 思ったのは, アレンジはスゴい, 年代によって変化しているけど,「歌」のメロディーは, 基本的には決まったごくごく基本的な・少数のパターンを組み合わせていて, そのパターンていうのはほとんど変わってない, 組み合わせでまだ出ていないのを選んでいる, ということです. もっと簡潔に言うと, アレンジは変化しているけど, 歌メロは 90 年代くらいからあまり変わっていない. ですので, そこを崩してしまうと, もしかしたら, ポピュラー音楽にならないのかもしれませんし, 日本のポピュラー音楽にならないのかもしれません. その基本的なパターンとはどういったものかについては, また別の機会に.