私たちが普段耳にする音楽や、日常の中で触れる科学的な現象は、遠くかけ離れた世界にあるように感じるかもしれません。しかし、もし私たちの周囲に存在する物理現象が音楽として表現できるとしたらどうでしょうか?例えば、アインシュタインが1916年に予言した重力波のような現象を音に変換できるとしたら、それはどのような音になるのでしょうか?
このような問いに答えようとする試みがイタリアのサピエンツァ大学などの研究者たちが手がけた論文「Gravitational music: a mathematical-musical model for the popularization of gravitational waves」(2024) にあります。この論文では、科学的な現象である重力波を音楽に変換するという挑戦的なプロジェクトを紹介されています。それでは、この「Gravitational Music」がどのような仕組みで動作し、どのような目的で開発されたのか、詳しく見ていきましょう。
「Gravitational Music」とは何か?
「Gravitational Music」は、重力波という物理現象を音楽として表現するインスタレーション(芸術的な展示装置)です。重力波は、巨大な天体が互いに影響を与えながら運動するときに、時空に生じる波動です。一般的に、重力波は人間が直接感じることはできませんが、極めて高度な観測装置を使ってその存在を確認することができます。
この論文によると、「Gravitational Music」では、人々の体の動きや質量を基に、重力波を模した音楽を生成します。これは単なる科学データの音響化(sonification)ではなく、参加者が直接システムに関与し、リアルタイムで音を生成するというインタラクティブな要素が加えられています。論文の筆頭著者であるアレッサンドロ・ビーレ(Alessandro Bile)氏は、物理学と音楽という一見異なる分野が、実は深く結びついていると強調しています。このプロジェクトは、その結びつきを新たな形で探求するものです。
重力波の音響化と「Gravitational Music」の仕組み
論文では、重力波の物理的な特性がどのように音楽に変換されるかについて、数学的なモデルが説明されています。まず、重力波は、巨大な天体の運動によって引き起こされる波動です。例えば、ブラックホール同士が衝突する際に発生する重力波は、時空の歪みとして伝わります。この歪みが波となって広がる過程を、音として変換することが可能なのです。
「Gravitational Music」では、参加者がインスタレーション空間に入ると、スマートフォンなどのデバイスを使って彼らの動きを記録します。参加者は「人間の星(human stars)」として扱われ、その質量や位置がリアルタイムで計測され、これを基に重力波のような音が生成されます。この音楽生成のプロセスは、Einstein(アインシュタイン)の重力波に関する方程式を応用したもので、参加者の動きが音楽として表現されるのです。
さらに、これらの音は単なる物理現象の音響化ではなく、複雑な組み合わせによって作り出されます。参加者の質量や動きは、天体の衝突や星の合体など、宇宙で起きる現象を模倣し、そのプロセスに基づいて音楽が生成されます。例えば、参加者が互いに近づく動きをすると、ブラックホールの衝突を模した音が鳴り響くように設計されています。
教育的な役割——重力波の理解を深めるために
「Gravitational Music」は、単なるアート作品ではなく、教育ツールとしても設計されています。物理学の分野では、重力波のような複雑な現象を言葉だけで説明することは非常に難しいです。しかし、音楽や視覚的な体験を通じて、そうした現象を直感的に理解することができるようになります。論文によれば、このインスタレーションは、学校教育や一般の大衆向けの普及活動に利用できるとされています。
特に、LIGO(Laser Interferometer Gravitational-Wave Observatory)やVirgo(ヴィルゴ)といった重力波観測プロジェクトで行われている重力波の音響化プロジェクトと同様に、「Gravitational Music」は、重力波の物理現象を音に変換することで、科学的知識をより身近に感じてもらうことを目的としています。LIGOやVirgoの教育リソースでは、重力波を「chirp(チャープ)」と呼ばれる音声信号に変換し、これを一般の人々が聴ける形で提供していますが、「Gravitational Music」はそれをさらに発展させ、参加者が自らの動きで音楽を生成できる点が特徴です。
実際のインスタレーションの動作例
論文では、「Gravitational Music」の実際の使用例として、2人の参加者がインスタレーション内で動く様子が紹介されています。参加者が互いに動き合い、その動きが重力波に基づく音楽を生成します。参加者の質量や位置は、ブラックホールや中性子星といった天体に対応させられ、それぞれの動きに応じて異なる音が生成されます。
具体的には、参加者が互いに近づくと、ブラックホールが衝突する際に発生する重力波の音が再現されます。この音は、徐々に周波数が上がり、最後に激しい「チャープ」音が鳴り響きます。これにより、参加者は天体の衝突や合体といった宇宙の現象を、まるでその中にいるかのように体感できます。
今後の展望と拡張
「Gravitational Music」はすでに開発され、インタラクティブな展示として利用されていますが、今後の発展も計画されています。論文では、AI(人工知能)を活用してさらに精度を高め、データ管理やインタラクティブ性を向上させる取り組みが進められていると述べられています。これにより、より複雑なデータ処理や、参加者の動きに応じた音楽生成が可能になります。また、このシステムは教育だけでなく、社会的な交流の場としても利用できる可能性があります。参加者同士が互いの動きを通じて音楽を生成し、宇宙現象を体験しながら新しいコミュニケーションが生まれるでしょう。
まとめ——科学と音楽の新たな可能性
「Gravitational Music」は、物理学と音楽という一見異なる分野を結びつけ、重力波という難解な現象を音楽として体験できる革新的なプロジェクトです。このシステムは、教育ツールとしての役割を果たし、科学的な知識を一般の人々に分かりやすく伝えるための新しい方法を提供しています。また、インタラクティブな要素を取り入れたこのプロジェクトは、参加者が自らの体験を通じて科学現象を理解することができる点で、従来の教育方法とは一線を画しています。
科学技術と芸術が融合することで、私たちはより深い理解を得るだけでなく、新しい発見や感動を得ることができます。「Gravitational Music」は、そのような新たな可能性を探求するための一歩として、大きな意味を持っているのです。今後、このプロジェクトがどのように発展し、どのような形で私たちの身近に広がっていくのか、非常に楽しみです。