過去の失敗を許す社会と、過去の失敗を許さない社会、どちらが成熟した社会なのかと考えた場合、私は、過去の失敗を許す社会だと思います。過去の失敗を許す社会の方が、成熟した社会だと思います。
いつか突然、自分が加害者になる恐怖
社会の成熟が段階的に進むのであれば、過去の失敗を許さない社会から、過去の失敗を許す社会への移行の途中に、過去の失敗を許さない人たちを許さない社会が存在すると推測することも可能です。
全てがアーカイブ化され、マイニング可能な社会になっていく中で、いま自分が行っていることが、将来的に価値観の変容によって、不道徳な行為だと烙印を押される可能性があります。現在、いろんな人が、小山田圭吾を叩いているが、他人の過去の失敗への非難を表明することが、将来的に、不道徳な行為だと認定されるかもしれません。
要するに、現在、小山田圭吾を非難している人たちは、将来的に、価値観の変容によって、加害者になってしまうことは十分に考えられます。
わたしが小山田圭吾の件で気付かされたのは、自分が突然、加害者になってしまう恐怖です。自分がふだん行っていることが、価値観の変容によって、将来的に、何か罪になってしまうのではないかという恐怖です。
価値観の変容というの正しくないでしょう。正確には、既に存在していた道徳的価値の発見、でしょう。
そうやって道徳的価値観が発見されていくことで、将来的に自分のいまの行動が不道徳になる可能性があるなら、いまの行動が著しく制限されてしまうのではないでしょうか。何も表現できなくなってしまいます。多くの人がそういった考えを持ってしまった場合、社会全体の成長が止まってしまう可能性があるのではないでしょうか。将来叩かれるかもしれないから、今、何も行動しない、何も表現しないような人が大半を占めるようになった社会を、望む人はいるのでしょうか。
小山田圭吾は音楽のプロであって、謝罪のプロではないし、道徳家のプロでもありません。危機管理回避のプロでもない。小山田圭吾ができることは、オリンピックで最高のパフォーマンスをすることで、たとえ過去に人を傷つけたことがあっても、素晴らしい音楽を作れる人間に生まれ変われるんだと、証明することだけです。
フリッパーズ・ギターとサンプリングについて
引用、サンプリング、剽窃、盗作などなど、この辺は大変繊細な話題なので、境界線を引くのも難しいし、反応的に書いてしまうのは悪手ですが。
それでも、小山田圭吾・オリンピック問題に関連して発表された中村佑介のブログ記事は、かなりその繊細な部分の扱いがかなり雑だったので、雑だということは指摘しておきたいですね。
フリッパーズ・ギターが行ったサンプリングからヒップホップへ話を展開させてオレンジ・レンジの名前を出すのは…
と思って元記事を確認しに行ったら、
なんかオレンジレンジの名前は消されて、「僕は90年代ヒップホップも好きで音楽詳しいです」みたいな文章が付け加わって、初稿の内容を確認できない形で編集されてましたね。
もしかして私の記憶違いだったのでしょうか… 確かにオレンジレンジの名前は出ていたと思うのですが…
この件については、オザケンはパクリだというブログ記事も注目を集めていますが、
パクりであれ洋楽の替え歌であれ、サンプリングであれ引用であれ、商品として仕上げられるセンスと実力と運がなければ売れて成功しないわけで。同じように洋楽パクって替え歌にしても売れない人だっているんです。
だから、もしパクりだと言っていいとして、パクりだとしても、パクり方が上手だった、という他ないでしょうね。パクり方が下手だったら、同じパクりでも売れません。
というのの前に、こういうJ-POPにおける分かりやすい元ネタ使いは、リスナーも分かった上であえて指摘しないのが作法だと思ってました。渋谷系リスナー仕草というか、J-POPリスナー仕草というか。
だってなんかカッコ悪いじゃないですか、元ネタ、しかもかなり有名な曲が元ネタなのに気付いても、いちいち指摘するのって。みんな知ってることをいちいち言わないというか。ミュージシャン側もいちいち元ネタ言わないですよね。なんか、音楽やってるんだからいちいち言葉で説明するのは粋じゃないというか。
元ネタ文化って、リスナーもミュージシャンも双方、そういった「いちいち指摘しない」作法・仕草がふつうなのかな、と思ってたんですけど、そうでもないんですかね。
というブログ記事を夕方に投稿しようと準備していたところ、辞任意向のニュースが。
音楽家は音楽によってしか過去を乗り越えることはできないと思うんですよ。
小山田圭吾の音楽の魅力は、オリンピックに収まらなかったのかもしれないですね。この経験を通じてつぎにどんな音が慣らされるのか、音楽ファンは待ち続けましょう。
もうここまで来ると何もかもが蛇足な気がしますが、個人的には、Cornelius より優れた・オリンピックにふさわしそうな音楽家はたくさんいると思うし、FPM もなんか、発表されたときは、一昔前の渋谷系を起用してイマっぽさを演出しよとしているのがちょっとサムいというか、コーネリや FPM だったら有名ボカロ P でも良かったのではないか? と思っていました。
もう何もかも蛇足です。