過去の音楽はどんなものだったのか, これを確認するためには, 文献や楽譜といった記録が頼りになります. ただ, 過去の音楽を確認するだけではなく, 音楽の始まりを求めようとするのであれば, 文献・楽譜では不十分です. というのも, 音楽は, 文献や楽譜が登場する以前から営まれていたはずだからです. それを証拠づけるのが, 物質的な記録, つまり出土品です. また, 古い習俗も, 音楽の始まりを求めるにあたっての参考になります. このことは, 日本の音楽の始まりを求めることにおいても例外ではありません.
目次
古来の音楽を伝える出土品と習俗
弥生時代・古墳時代までについては, 銅鐸や石笛, 土笛, 板状の弦楽器などの出土楽器が, 当時の音楽の様子を伝えてくれます. また, 出土楽器だけではなく, 埴輪といった副葬品, 絵画もまた, 当時の音楽を知る手がかりになります. こうした出土品以外では, 日本および日本周辺の文化圏に存在する, たとえば「歌垣」といった習俗から, 日本古来の音楽の様子を推測することができます.
歌垣とは, 端的に言えば男女の歌掛け遊びです. 音楽にはさまざまな機能があります. その 1 つが求愛という機能で, その代表例が歌垣です. 歌垣は, ヒマラヤ南麓から東南アジアの北部山岳地帯や中国南部にかけての, いわゆる照葉樹林帯の少数民族にさかんな習俗です. 古来の音楽の在り方を現代においてうかがうことのできる歌垣ですが, 『古事記』(712),『風土記』(奈良時代初期),『万葉集』(奈良時代末期) といった文献から, 日本でも古くから存在していたことを確認できます.
ただ, 歌垣のような習俗が, 日本以外の周辺の地域からみられるからと言って, 当時の日本が音楽的な影響をアジア諸国から積極的に受けていたかというと, そうではないそうです. 有史以前から, 日本と大陸との間で文化的交流がされていたことは確認されていますが, 音楽の面では, 素朴な日本固有の民族的歌舞を主として行っていたと考えられています. 大陸から輸入される以前から, 既に日本にはウタ (≒ 歌) とマヒ (≒ 舞) があったのです.
国風歌舞: 日本古来の雅楽
古い日本の音楽としてぱっと思い浮かぶのは, 雅楽でしょう. 雅楽には多様な音楽・芸能が含まれますが. その 1 つに国風歌舞があります. 国風歌舞は, 上代歌舞とも言われ, 平安時代に現代的な形での伝承へ変化しましたが, 日本の音楽の始まりにきわめて近い内容を伝えている, 古来から日本に存在する土着の歌舞だと考えられています. たとえば神楽, 東遊, 久米舞などで, 伴奏楽器としては神楽笛や和琴が用いられます. 和琴には, 登呂などの弥生時代の遺跡から出土した琴の面影があります.
国風歌舞には, 日本列島が統一されていく過程で, 服属儀礼として宮廷歌舞のなかへ取り入れられたものが少なくありません. 朝廷の支配が行き届きにくい辺境の豪族に, 朝廷という場所でその辺境の土地の歌舞を奏上させることによって, 政権に服属したことを認識させる目的があったとされています.
ちなみに雅楽とは, 「雅正の楽」の略で, 上品で正しい音楽という意味です. 一般民衆の音楽を「俗楽」といいますが, それに対する音楽であるという位置付けです. 雅楽の起源は, 奈良時代, あるいはそれ以前からの文化交流にともなって伝来した, おもに東アジア諸国の音楽です. 日本に伝来した東アジア諸国の音楽は, 平安時代になって国風化し, 整理・統合されました. 雅楽は, 大きく 3 つに分類することができ, 日本古来の芸能 (国風歌舞), 外来の文化を日本化した芸能 (大陸系楽舞), 日本の声楽と外来の器楽を合わせた音楽 (歌物) です. つまり, 雅楽の起源は伝来した東アジア諸国の音楽ではありますが, 現在雅楽と呼ばれている音楽のなかには, 日本古来の芸能も含まれているのです.
天皇と音楽:『古事記』『日本書紀』の音楽
文献として確認できる古い日本の音楽としては,『魏志倭人伝』(3 世紀末) にまでさかのぼることができ, 邪馬台国の葬儀に関する歌舞に言及した部分があります.
年代をかなり下ることになりますが,『古事記』, 『日本書紀』(720) には, 3 世紀から 5 世紀の天皇, 仲哀・応神・允恭・雄略が, 4 弦ないし 5 弦の琴を弾いたとする話が伝えられています. このなかで仲哀天皇は, 実在を確認できない神話的な存在ですが, 熊襲を討つために神託を求めて琴を演奏しています. 応神天皇が弾いた琴は,「枯野」という官船の廃材を使って作られ, 大きな音色を鳴り響かせた神器だとされています. 允恭天皇は, 新しい住居ができた祝賀の宴で琴を弾きました. 雄略天皇は吉野行幸における遊宴で琴を弾きました.