映画『君たちはどう生きるか』をどう観るか。4 本 17,000 字の考察記事まとめ: あるいは補遺としてのドゥルーズとの共鳴

公開からまもなく 1 週間。公開前の徹底的なネタバレ予防と、公開後でもパンフレットなどの公式設定集の発表が未アナウンスであること、そして作品自体の情報量の多さから、ネット上では宮崎駿監督・アニメ映画『君たちはどう生きるか』について、さまざまな考察が展開されています。

わたしも公開初日に観てきまして、衝撃を受け、全体的には傑作だと確信しました。ただ同時に、やはり情報量が多いためか、部分部分で意味不明だと感じる箇所がたくさんありました。

そういった意味不明な箇所を読み解くために、ネット上にまとめられたあらすじを参考にしながら、本サイトでは、4 本 ( 3 本 + 補足 1 本) 考察記事を、合計 17,000 字を執筆、公開しました。また、YouTube でも、ポッドキャスト的に、オーディオオンリーですが、考察動画を公開しました。

この記事では、それぞれの考察記事、動画について、簡単に紹介します。

なおこの記事も、場合によってはネタバレになっているところもあると思いますので、映画未見の方はご注意ください。

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革命のリビドー: 宮﨑駿監督『君たちはどう生きるか』公開初日・初見ネタバレ考察

まずは最初に公開した「革命のリビドー」。これは、公開初日に鑑賞してその次の日、直感的に思いついたことをメモし、やや強引にまとめた記事です。

物語の構造をフロイト的視点から読み解き、さらにマルクス的メッセージを見出すことで、映画『君たちはどう生きるか』の普遍的価値を考察しています。

本サイトで公開している「革命のリビドー」は、かなり婉曲的な表現が用いられていますが、無料版はてなブログを緊急で開設し、そこで公開した無修正版「革命のリビドー」では、フロイト的シンボルについて直接的で露骨に記述しています。

分かりやすいのは無修正版「革命のリビドー」の方だと思います。

宮﨑駿監督・映画『君たちはどう生きるか』の現代的価値: 誰をターゲットにした映画だったのか?

つづいて紹介するのは、「現代的価値: 誰をターゲットにした映画だったのか?」です。

この記事では、「この映画を見た結果、喜ぶのは誰なのか?」という問いを出発点に、映画『君たちはどう生きるか』の現代的価値を考察しました。

宮﨑駿『君たちはどう生きるか』ネタバレ考察動画: すべての〈母〉のための物語

また、YouTube チャンネルで公開した考察動画「宮﨑駿『君たちはどう生きるか』ネタバレ考察動画: すべての〈母〉のための物語」は、「革命のリビドー」と「現代的価値」の 2 つのブログ記事をベースにお話ししています。

宮﨑駿『君たちはどう生きるか』はなぜ難しいのか?: 実はシンプルなあらすじを解説

続いて紹介するのは、「宮﨑駿『君たちはどう生きるか』はなぜ難しいのか?: 実はシンプルなあらすじを解説」です。

この「なぜ難しいか?」では、主人公の人物像を起点に、映画が難解に感じてしまう理由を考察します。また、映画が難解だ、あるいは退屈だと感じてしまう人は、それはそれで健全だ、ということも指摘しています。

「登場人物のモデルについて考察」について考察

最後に紹介するのは、「「登場人物のモデルについて考察」について考察」です。

この記事は補足記事です。私の書いた考察記事は、意図的に、映画と、作者 (=宮崎駿) の経歴との関係をなるべく排除していますが、その理由について述べています。

以上、私がこの 1 週間で公開した、映画『君たちはどう生きるか』の考察記事 4 本の紹介でした。

私もまだ 1 回しか観てないので、あらすじ上の記憶に曖昧な部分があるなど、作品を深く鑑賞できているとはまだまだ言えません。4 本の記事はいま読み返しても、特に 1 本目「革命のリビドー」は雑なところが多いと反省しています。

ただ、公式パンフレットがまだ発売されておらず、設定についての公式見解がまだ出ていない今だからこそ、自由な発想で映画に向き合うという、貴重な経験ができていると思います。ゼロ・プロモーション、ネタバレ箝口令を敷いてくれた公式には感謝です。

何より、たとえ出鱈目でも、自由な発想で・1 週間で 4 本も考察記事を書いてしまうくらい、それくらい (というかそれ以上に) この映画は豊かな内容になっていると思います。

傑作です。

未見の方はぜひ、観に行きましょう。

補足: ドゥルーズ的に読み解く

この文章を書きながら、また 1 つ思いついてしまいました。

映画『君たちはどう生きるか』は、実はドゥルーズ的だったのではないでしょうか。

映画『君たちはどう生きるか』は、フロイト的シンボルが印象的に登場します。

(父子の) エディプス・コンプレックス的関係性、塔、汚い鼻などです。

特にエディプス・コンプレックスは、この映画の物語構造を特徴づけていて、この映画の物語構造はエディプス・コンプレックスの変奏だと言うことができます。

つまり、映画『君たちはどう生きるか』では、主人公は母を欲し、父を乗り越えようと困難に立ち向かう中で、青サギ他者と出会い、成長していくのです。

しかしこのような成長物語は、家父長制を無条件に前提としています。エディプス・コンプレクスの理論では性役割は固定されていて、もっと直接的に言うと、男性性の女性性に対する優位を、無条件に前提としているのです。

こうした前提はもちろん批判されていて、例えばドゥルーズ・ガタリは、フロイトがエディプス・コンプレックスの理論で無意識を抑圧しようとしていたことを批判します。ドゥルーズ・ガタリは、フロイトが抑圧しようとしていた無意識を、能動的で生産的な欲望として位置付けます。フロイトがエディプス・コンプレックスにおいて「父 – 母 – 子」という三角関係へ欲望を閉じ込めようとしたのに対し、ドゥルーズ・ガタリは欲望を解放しようとしたのです。

こうしたドゥルーズ・ガタリのエディプス・コンプレックス批判は、映画『君たちはどう生きるか』の物語構造に呼応します。

まず、主人公の欲望は単純な、「父 – 母 – 子」の三角関係に閉じこもっているのではなく、実母と義母という二重の母によって、開かれています。

そして義母は、主人公の精神世界 = 異世界の最奥部 = 無意識の世界に閉じ込められていますが、物語のラストで、主人公は祖先からの継承を否定することで無意識を解放し、その際、義母とともにに帰還します。無意識の解放は、無意識世界の住人であった大量のインコとともに、現実へ帰還したことからも読み取れます。

つまり、フロイト的エディプス・コンプレックスにおいて抑圧するべき対象だった無意識が、映画『君たちはどう生きるか』では解放の対象であり、無意識の解放こそ主人公の成長の徴 (しるし) だと捉えることもできます。

無意識の解放は、大叔父による同一性の固執からの逃走にも呼応するとも考えられます。

映画『君たちはどう生きるか』は、フロイト的モチーフと、共産主義的前提から出発し、無意識の解放を通じてドゥルーズと共鳴する物語ではないでしょうか。

ドゥルーズとの共鳴については、まだアイデアの状態、仮説の状態です。詳細については、稿を改めたいと思います。

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コメント

  1. Iamthestorm より:

    『君たちはどう生きるか』について、ドゥルーズを引き合いに出して論じられていることについて思うことがありまして、コメントさせて下さい。
    まず、先に「革命のリビドー」も読ませて頂いたのですが、フロイトやエディプス・コンプレクスというタームを用いてこの作品を論じた中ではかなり納得のいく話だと思いました。
    というか、フロイトを読まずにフロイトやエディプスコンプレクスを論じる人が非常に多い(感触がある)ので、この論理の展開には安心感がありました。

    で、ドゥルーズに関してなのですが、「革命のリビドー」の中でキリコを母親として考えて「3人の母親」として論じられているのを見て、気が付いたことがあります。
    この3人の母親というのが、『ザッヘル=マゾッホ紹介』にあるようなマゾヒズムの3つの母親像と正に対応するようなものなのかもしれないということです。
    ただし、だとすると槙人が手を取って現実に帰還するのはヘタイラ的な母であったように私には読めて、ドゥルーズと響き合ってしまうくらいエディプスコンプレクスを拗らせた作家のその拗らせの所以みたいなものをここに見たりという気もしてしまいます。
    また、もう少し作品から距離を取って見てみても、宮崎駿はマゾヒスティックな作家だなということに改めて気付かされるし、(マゾヒストが優しくもなければ無辜の被害者というのとも全く関係がないという前提の上で)日本のアニメって主題から形式に至るまでマゾヒスト的だなということをつくづく思い知らされる作品でもあると、私は思いました。

    • Xtra Peace より:

      Iamthestorm さん。

      コメントありがとうございます。ブログ管理人です。そしてお返事遅くなりましてすみません。

      このブログにコメントをいただく自体が非常に稀で、チェックを怠っていました。

      まず、私の拙い評論のモノマネ文をお読みいただき、ありがとうございます。鑑賞直後の興奮、勢いそのままに書いたので、いま読むと心の底から赤面ものです。書いた当時から「こんなんを公開していいのか?」と迷いはありましたが。

      私はドゥルーズはあまり読み込んでいないので (私のドゥルーズの理解は、哲学史の教科書レベルです)、『ザッヘル=マゾッホ紹介』的視点からの、『君たちは〜』についての私の意見はここでは控えます。

      が、宮崎駿や、日本のアニメーションがマゾヒスティックだというご指摘は、今後の私のアニメ (など、日本のサブカル作品) 鑑賞体験のヒントの 1 つにいたします。

      もう少しゆっくり考えさせてください。

      Iamthestorm さんもどこかの媒体で文章を公開していましたら、ぜひお読みしたいので、お教えいただければと思います。

      それでは。コメントありがとうございました。