音楽の根源的な姿

田村和紀夫『音楽とは何か ミューズの扉を開く七つの鍵』(2012年、講談社)「第4章 音楽はリズムである」のノートです。なお、当エントリー中の引用部分は、特に断りのない限り同書からになります。以下も参考にしてください。

前回のエントリー「バッハ《ロ短調ミサ曲》BWV232における「踊り」性」では、バッハを例に、踊りが音楽にとって如何に根源的であるか、が田村和紀夫によって説明されたのですが、今回はその続きです。

「それにしても、ここでのバッハの音楽はまさに「血湧き、肉躍る」の感があります。身体性をあれほど忌避してきた教会の音楽としては異例なほどであり、その表現に眉をひそめる向きもあるかもしれません。だがバッハの世界を理解するためには、自分のミサ曲が陽気すぎると非難された時、ハイドン Joseph Haydn(一七三一~一八〇九)が応えた言葉を想い起こせばいいかもしれません。ハイドンはこういったのです———「神のことを思うと、わたしは心が喜びに満たされ、胸が躍るのです」。」(p. 120 – 121)

バッハの宗教的作品に「踊り」性を、田村和紀夫は見出したのですが、この持論を強化するために、ハイドンの言葉を引用している、ということですね。しかしこのハイドンの言葉の出典が記されていないので、気になるところであります。

さて、第4章の最後の部分をみてみましょう。

「まだ言葉も喋れない幼児が、身体をリズミカルに動かしているのを見たことがないでしょうか。沸き上がる感情を、全身で表現している姿に出会ったことがないでしょうか。リズムはまさに生命の息吹なのであり、言語活動以前の生の表出なのです。そしてバッハの究極の作品で、神をほめ讃える音楽は「聖なる舞踏」となったのでした。身体的な衝動という原初的な地平で、バッハは神と出会ったかのようです。その時、音楽の根源的な姿が開示されたのだ、というべきなのかもしれません」(P. 121)

んー、最後まで「リズムとは生命である」というリズム定義における、「リズム」という単語を、比喩的に使用しているような印象を受けます。何だかけっきょく、「リズムとは生命である」と言った場合の「生命」について、釈然とした説明がなかった・・・、ワタシの想像力が足りないだけでしょうか。ただ、ワタシは「生命」=「躍動感」として予想していたのですが、もちろん田村和紀夫にとってはこの意味もあるのでしょうけれども、「根源性」という単語を使用しているので、「それをそれたらしめるそれ」という意味で「生命」(つまり、リズムは「音楽を音楽たらしめるところのそれ」)という単語を使用しているのかもしれません。いや、両方かな、つまり、「生命」=「それをそれたらしめるそれ/躍動感」、という両方の意味を込めている。

また、第4章全体を通して、「リズム」と「拍子」についての話題の移行はすんなり行われているのですが、どうも「拍子」から「舞曲」、「舞曲」から「大衆性」、「大衆性」から「根源性」への話題の移行がどうも無理のある気がします。

もう少し、「舞曲」と「リズム」についてツッコンで書いていただけるともっと面白くなるのになあ、という感想です。


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