ジオシティーズが… 終わってしまう… このままでは… 高校の頃にしたためていた音楽レビューが消えてしまう… なんとか救出しないと… とあたふたしていたのですが, パソコンを検索したら出てきました! ということで, せっかく発見したので,「さよなら, ジオシティーズ」と題して, 過去に書いた音楽レビューをこのサイトへ転載することにしました. 21 回目は, 2002 年 9 月に解散した Number Girl について, ミュージシャン論. 文章はほぼそのまま.
ではどうぞ…!
再考にしてやはり最高、ナンバーガール ~解散に寄せて~
ナンバーガール、解散。
以前から2チャン等では囁かれていた噂である。
9月20日、その噂は現実となった。
ナンバーガールウェブサイト、
『狂う目』
そのトップページにでかでかと、明朝体の文字。
解散の流れは以下の通りである。
ベース、中尾憲太郎が他にやりたい音楽があるため脱退の表明
→4人でナンバーガール、という強い意志
→解散の決意
優秀なロックバンドを挙げていけばきりがない。
だが、純・日本代表ロックバンドは、ナンバーガールしか、俺の思い当たるところ、なし。
ナンバーガール以外のほとんどの日本のロックバンドは、どれだけ洋楽に近づくことができるかにその活動を終始させている。
ゆえに、洋楽に追いつくことはできるかもしれないが、洋楽を追い越すことはできないし、まして日本のロックなど、生まれれない。
しかしナンバーガールは、日本という記号性をロックという音楽により体現することができた。
それにより、(もちろんロックバンドとしての音の強靭さを備えた上で)洋楽を意識する必要のない、日本のロックが生まれたのだ。
ナンバーガールの描き出す世界は、日本そのものだ。
しかし、古風な日本ではない。
『NUM-HEAVYMETALLIC』に収録されている楽曲は、
古風さが出ているもの(というか祭り??ええじゃないか??)も見受けられが、
ナンバーガールの描く日本、それは「現代」そのもである。
現代に生きる実体なき少女、現代でコンプレックスを抱く少年、現代で虚ろさと冷たさを併せ持つ都市(東京)、
その全てはしかし、決してニヒルに描かれてはおらず、センチメントにまみれている。
確かに、『NUM-HEAVYMETALLIC』では、そのセンチメントが無くなった、というリスナーは多いが、俺はそうは思わない。
むしろ、祭り(ええじゃないか)の要素×現代・都市に生きる者のセンチメントが見事に融合、混乱と混沌を起こし、非常に感慨深い作品である。
ロックするやつ等には、だいたいにおいてその歌手なりバンドなりに、物語性を求めたくなるものだ。
椎名林檎はその代表格のようなものであるし、The Blue Hearts も然り。
俺の愛する Mr. Children も、新譜が出る度にその物語が必ず語られる。
洋楽ではピストルズなり、Nirvana なりが、その的である。
他にも挙げていけば限がない。
しかしナンバーガールは、そんな物語性とはかけ離れ、それでいて良質なロックを鳴らし、よく語られる、数少ないバンドだ。
要は本当に音楽(ロック)で勝負しているのだ。
しかし、ここに来て突然、今までの活動が全て、物語、になってしまった。
突然の解散。
それはしばしば、物語られるロックミュージシャンの定番である。
俺はロックミュージシャンは、物語られることにより、どんなに実際の音楽が素晴らしくても、その音楽に対して何かしらの懐疑を抱いてしまう。
ナンバーガールが物語られるようになっても(既に物語られているが)、唯一の救いは、その物語が、椎名林檎のように半ば確信犯的、自覚的なものではなく、本人たちは全く無自覚でありながら(多分ね、多分)、描かれた、ということだ。
その点において、ナンバーガールの名盤たちは、決して色褪せることは無いだろう。
日本代表ロックバンド、ナンバーガール。
それを過去形にするにはあまりにも早すぎる。
6本の狂ったハガネの振動から新しいロックが鳴らされる日は、もう、ない。