郡司ペギオ幸夫については、Wikipedia でも参考いただきたい、
ということで、さて。『いきものとなまものの哲学』ですが、ここ1〜2年に青土社などから出版された雑誌論文をまとめたものになっています。内容的には、ここ2〜3年で日本でも紹介され始めた、「ポスト – ポスト構造主義」としての「思弁的実在論」、
- 思弁的実在論 – Wikipedia
- Speculative realism – Wikipedia, the free encyclopedia
- ハーマン、グラント
- 思弁的転回へ
- ハーマン、グラント
- ハーマン、グラント
- ブラシエ、グラント、ハーマン、メイヤスー
- ダグロン
特にデランダによるドゥルーズ解釈を中心に、生物学と哲学を学際的に横断しながら「生命とは何か」を考察する、というものだと思います。
「だと思います」というのは、まだ全部を読み切れてないからですが。
ということで、まだ全部は読み切っていませんが、「あとがき」に音楽的な問題を、郡司の専門に落とし込んで説明した一節がありまして、それが面白いので、紹介します。「ファンキー」とは、生物学的・哲学的にはどう説明されるのか。実際には音楽ではなくてダンスにおける「ファンキー」の考察ですが、音楽における「ファンキー」へも通ずるところがあるかもしれません(というか通じないとおかしいでしょう)。70年代ドイツのディスコ・ユニット、Boney M. のダンスへの、直観的な記述ともとれる箇所を、少し長いですが、引用しましょう。
「ボビーのダンスは、そういったものを遥かに超えていく。ワンテンポ遅れて手を叩き、その場で回転し、踵を跳ね上げてマントを払うかと思うと、背中をまっすぐに伸ばしたまま、腰を落とし、鎌状に曲げた手首で、ロボットのように空中をまさぐる。その動きは、江頭 2:50 の動きである。いや、江頭氏がボビー・ファレルに心酔し、彼のアドリブとしか思えないダンスを反復・習得し、型として完成させたのではなかろうか。そのような追随者が現れて初めて、ボビーのダンスは型となり、振り付けとなるに違いない」
「ボビー・ファレルのダンスこそ、「何かの踊り」として、見果てぬ向こう側、潜在する何か、を指し示す。一般的に完成されたダンスとは、次のようなものだろう。手足の動きが、全体の踊りの中に有機的に組み込まれ、部分と全体は、一分の隙もない双対構造をみせつける〔中略〕。しかしわたしの好むものは、常にそこからの逸脱をはらみ、逸脱が延長を示唆し、無限遠の何かを指し示す美なのである」
「もともとファンキーであるとは、そういった様相だったはずだ。それは単なる逸脱ではない〔中略〕。そうではなく、崩れた部分が、どこまでも続くと想定される———しかし決して見渡せない———空間を指し示す。自分は双対構造を見る「ここ」にのみ実在すると思い込んでいたが、それはただの一点に過ぎなかった。見えはしないが、空間が、自然が、向こう側に展開されているようで、自然の・土の・世界の匂いがする。それこそ、ファンキーであることを体現するボビー・ファレルのダンスである」
ここに引用された「ボビー・ファレスのダンス」は、郡司の提示する「生命」モデルの例として、「B級グルメ」の次に挙げられています。どのように「ボビー・ファレルのダンス」と「B 級グルメ」が関係し、「「生命」モデル」の例として挙げられるかは、実際に同書を読んでいただきたいのですが…、とにかく先ずは、ボビー・ファレルのダンスを観てみましょう。ということで、Youtube で観てきたんですが…
音楽的にはイントロに転調やそれにともなう BPM の変化があったりして、そのあたりファンキーだと思いました。
というか郡司の文章自体が、例えば「1-1 他者を取り込む〈わたし〉」なら、「アンパンマン」から始まって「ドゥルーズのマゾヒズム/サディズム」を経て「文化人類学者は未開人の顔を食べるだろう」という結論を導く、かなり「ファンキー」な感あります。ので(?)、最近の思想の動向なんかをポップに読み取りたい方にはオススメっちゃオススメです。
なお念のため、郡司 dis は以下を御参考ください。