いや、もう、本当に驚きましたね、Mrs Green Apple『POPS』。売れすぎているアーティストにありがちな、なんか音楽好きからはあんまり聞かれていない、みたいなところはやっぱりミセスにはあるんですが、ここ数作のシングルに限れば、あ、けっこう技巧派なんだな、ていう認識になってきていて、そこで『POPS』ていうタイトルですよ。アルバムが。気になるじゃないですか。
聴きますよね。
ド肝抜かれましたね。
大げさに言えば、三浦大知『球体』以来、久しぶりに「これはJ-POPの傑作だ」と思いました。
もっとも、私はここ十数年、J-POPをくまなく追いかけてきたわけではありません。話題になった作品をたまに聴く程度です。『球体』についても、当時の高評価作品を一通り聴き比べた末にたどり着いたわけではなく、たまたま耳にして、その世界観に一気に引き込まれた作品でした。
なので、「ここ十年で最高のJ-POPアルバムです」とランキングしたいわけではありません。
ただ、アルバムを頭から最後まで一気に聴いて、そのままもう一度聴きたくなるような経験は、本当に久しぶりでした。
J-POPという枠を外しても、2026年に聴いた作品の中で、同じように「一気に最後まで聴かされた」という感覚が強く残っているのは、Angine de Poitrineくらいです。
もちろん、Angine de Poitrineとミセスは、音楽的には全然違います。Angine de PoitrineにはBattlesを思わせるようなマスロック的な複雑さがある。一方のミセスは、あくまで巨大なJ-POPです。
ただ、どちらも「次に何が来るのか分からない」という感覚で、聴き手を止めさせない。
そこだけは妙に共通しています。
ミセスをかなり冷笑していました
正直に言えば、私はミセスをかなり長いあいだ冷笑していました。
初めてきちんと耳にしたのは、おそらく「青と夏」だったと思います。
そのときの感想は、かなり雑に言えば、「また量産型のJ-ROCKバンドが出てきたな」くらいのものでした。
何も刺さらなかった。
とくにサビのメロディーが、私にはかなり単調に聞こえました。もちろん、その単純さこそが大衆性につながっている面もあるのでしょうが、少なくとも当時の私は、そこに面白さを感じませんでした。
その後、ミセスがやたら売れ始めても、「やたら売れてるなあ」くらいにしか思っていませんでした。
少し印象が変わったのは「ライラック」です。
イントロを聴いて、「あれ、これ、意外とアレンジやばい系のバンドなんじゃないか」と思った。
ただ、それでもサビのメロディーは、まだ私にはそこまで面白く聞こえなかった。
ところが、その後も新曲が出るたび、なんとなく耳に入るミセスの音楽が、明らかにどんどん複雑になっていくんですよね。
アレンジも、リズムも、展開も、以前より情報量が増えている。
そのうち私は、
「これ、大丈夫か?」
と思うようになりました。
複雑化しすぎて、いつかポップスとして破綻するんじゃないか、と。
で、ここにきて満を持してのオリジナルアルバムが、その名も『POPS』。
そりゃ気になりますよね。
で、聴いたら、「あ、これ、とんでもねえ」と。
J-POPの面の皮をかぶったプログレ
『POPS』の何がそんなに面白いのか。
まず、転調と変拍子がとにかく多いです。
しかも、「プログレっぽいことやってます」という見せ方ではありません。
普通にJ-POPとして流れているのに、よく聴くと拍子が変わる、コードが飛ぶ、転調する、メロディーのアクセント位置がずれる。
Xで、「The Mars VoltaにJ-POPのメロディーを乗せたようだ」という趣旨の感想を見かけました。
かなり分かります。
BattlesとThe Mars Voltaは、2000年代にそれぞれマスロックとプログレ/ポストハードコアの文脈で並べて語られることも多かったバンドです。
そう考えると、先ほど挙げたAngine de PoitrineがBattles側だとすれば、『POPS』の大森元貴には、どこかオマー・ロドリゲス=ロペス的なものすら感じます。
もちろん、音そのものが似ているという意味ではありません。
もっと根本のところです。
私は『POPS』から、オマー・ロドリゲス=ロペス並みの「情念」を感じました。
複雑だから複雑なのではない。
技巧を見せたいから変拍子や転調を使っているのでもない。
感情が過剰だから、曲の構造まで歪んでしまう。
そんな印象があります。
楽理的にも、ジャンル的にも複雑
『POPS』の複雑さは、変拍子や転調だけではありません。
もうひとつ重要なのが、ジャンルそのものの切り替わりです。
ロック、EDM、トラップ、ドラムンベース、カントリー、ハイパーポップ。
こうした要素が、「この曲はトラップです」「次の曲はドラムンベースです」という形で並んでいるのではありません。
一曲の中で切り替わります。
ドラムンベースっぽく走っていたかと思えば、サビで急にロックになる。
4つ打ちで進んでいた曲が、途中からトラップ的なビートになる。
あるジャンルの作法で始まった曲が、途中で別のジャンルの文法へ滑り込んでいく。
アーメンブレイクまで出てきます。
2000年代の言葉を借りるなら、かなり「ミクスチャー」であり、「クロスオーバー」です。
ただ、ロック+ヒップホップみたいな分かりやすい二項混合ではありません。
もっと細かく、もっと高速に、様式が曲の内部で解体され、接続され、また別のものへ変わっていく。
つまり『POPS』には、二種類の複雑さがあります。
ひとつは、変拍子、転調、コード進行、メロディーのリズムといった、楽理的な複雑さ。
もうひとつは、ジャンルや様式が一曲の中で次々に組み替えられていく、様式的な複雑さです。
しかも、この二つが同時進行する。
だから、異様に情報量が多い。
メロディーそのものが忙しい
ここで重要なのは、複雑なのがアレンジだけではないことです。
メロディーそのものも、とにかく忙しい。
抑揚が大きく、アクセントが頻繁に変わり、音の跳躍も多い。
歌メロ自体に、「次にどこへ行くのか分からない」という感覚があります。
ここには少し、中村一義っぽさも感じました。
声の質感もそうですし、メロディーが予想外の場所に着地する感じもそうです。
中村一義にも、普通ならそこには行かないだろう、という音へ軽々と飛んでいくような感覚があります。
大森元貴にも、それに近いものを感じます。
ただし、『POPS』では、それがさらに巨大なJ-POPのフォーマットの中で行われています。
髭ダン、King Gnu、星野源、米津玄師との違い
ここ十年ほどの男性J-POPアーティストを考えたとき、ミセスと比較したくなるのは、Official髭男dism、King Gnu、星野源、米津玄師あたりです。
RADWIMPSも巨大な存在ですが、ややロックバンドとしての文脈が強い。
Vaundyはまだキャリアの時間軸が少し違う。
なので、いまのミセスを考えるとき、この4者あたりが比較対象としてしっくりきます。
私には、髭ダンとKing Gnuには、どこか「アート志向」が残っているように感じます。
アートでJ-POPをやっている。
あるいは、J-POPという形式の中でアートをやっている。
高度な演奏や和声、構成そのものが、作品の「知的な顔」として前景化する瞬間がある。
星野源はまた違います。
彼は洋楽の同時代的なトレンドやグルーヴを取り入れながら、それを誰もが歌えるメロディーへ翻訳してきた人だと思います。
米津玄師もアレンジは非常に凝っています。
ただ、私にはメロディーのリズム的側面に、ボーカロイド由来の均質さがどこか残っているように聞こえます。
音程の抑揚は大きい。
でも、リズムとしての歌メロは意外と反復的で、一定の刻みから完全には離れていない。
それに対して『POPS』は、アレンジもえげつないし、メロディーの抑揚もリズムも目まぐるしい。
それでいて、アート作品にはならない。
あくまでJ-POPなんです。
ここが決定的です。
焼肉、ラーメン、パスタとして食える
『POPS』は、難解なコース料理ではありません。
焼肉であり、ラーメンであり、パスタです。
誰でも知っている。
誰でも食べ方が分かる。
口に入れた瞬間、「これは食べ物なのか?」とはならない。
ちゃんと大衆食です。
ただし、味が濃すぎる。
油も多い。
スパイスも多い。
具も多い。
情報量が多すぎて、食べ終わるころには若干胸焼けする。
でも、ちゃんとうまい。
『POPS』って、そういうアルバムだと思います。
アレンジもメロディーも展開も複雑にすると、普通はつかみどころがなくなります。
「これは若い人には受けるんだろうなあ」
くらいの距離感になってしまう。
私にとって、たとえばNumber_iには、そういう瞬間があります。
要素が次々に切り替わり、サウンドは現代的で、展開も多い。
でも、その複雑さが私には「ポップスとしての掴み」に結びつかないことがある。
『POPS』は違いました。
これだけ展開しても、最後までJ-POPとして留まってやる、という矜持がある。
複雑さそのものを目的化しない。
最終的には歌として成立させる。
サビとして成立させる。
ポップスとして成立させる。
そこに、かなり強い意志を感じます。
J-POPの外へ出るのではなく、J-POPを引き受ける
星野源のように、洋楽の語彙を参照してJ-POPを拡張する、というのとは少し違います。
『POPS』から感じるのは、すでに長年かけて洋楽の要素まで吸収してきた「現在のJ-POP」そのものを、いったん丸ごと引き受ける態度です。
もちろん、J-POP自体が最初から純粋な音楽ではありません。
ロック、ソウル、ファンク、ジャズ、テクノ、R&B、ヒップホップ、EDM。
さまざまな音楽の影響を受け、それらを漂白し、都市化し、脱・土着化することで、独特のポップスを成立させてきました。
だから『POPS』にも、カントリーもあれば、北欧系のポップもある。
EDMもある。
トラップもある。
ドラムンベースもある。
ハイパーポップもある。
けれど、それらを「外部ジャンル」として提示している感じがあまりありません。
すでにJ-POPの内部に取り込まれた語彙として使っている。
そのうえで、それらをさらに高密度に並べ替え、組み替え、複雑化していく。
だから『POPS』は、「J-POPの枠を壊した」作品というより、
J-POPの枠内にとどまり、その内部を限界まで拡張した作品
なのだと思います。
大森元貴は、J-POPから逃げていません。
むしろ、J-POPを引き受けています。
アルバムそのものも破綻しかけている
この過剰さは、曲単位だけではありません。
アルバムの曲順にも出ています。
たとえば「禁じた遊び」から「Carrying Happiness」への流れ。
情感たっぷりのミドルテンポのバラードから、いきなり多幸感を振り切った、J-POP的な強いキックの4つ打ちダンスチューンへ飛ぶ。
普通に考えれば、かなり唐突です。
アルバム構成として「破綻している」と感じてもおかしくありません。
でも、『POPS』をここまで聴いてくると、不思議と驚かなくなる。
そもそも一曲の中で、すでにそれくらいのことをやっているからです。
一曲の内部でジャンルが変わり、拍子が変わり、感情が変わり、テンションが変わる。
人によっては、一曲の時点で「破綻している」と感じるでしょう。
だったら、アルバムの曲順まで破綻していたところで、もう驚かない。
むしろ、曲内部の過剰さが、アルバム全体の構造にまで拡張されている。
そう考えると自然です。
ポップスのまま批評に耐える
『POPS』についてXを見ていると、いわゆる音楽レビュー界隈、批評的に音楽を聴く人たちからも、かなり好意的に受け止められているように見えます。
そこも三浦大知『球体』を思い出した理由のひとつです。
もちろん、音楽性はまったく違います。
ただ、メインストリームのポップスとして活動してきたアーティストが、ある作品を境に「これは作品単位で聴くべきものだ」と批評的なリスナーからも受け止められる。
そういう瞬間があります。
過去を振り返れば、たとえばMr.Children『深海』のような例もあります。
ただし、『深海』の場合は、大衆的なポップバンドが、より内省的でコンセプチュアルな方向へ踏み込んだ作品として評価された側面が強い。
『POPS』は、その方向ではありません。
むしろ、タイトルからして『POPS』です。
ポップスを捨てない。
難解な芸術作品の側へ逃げない。
売れ線から距離を取ることで「作品性」を獲得するのではない。
売れ線のポップスを極限までやった結果、それ自体が批評に耐えるものになる。
ここがすごくいい。
髭ダンやKing Gnuが選ばなかった道
少し言いすぎなのを承知で書けば、私は『POPS』を聴いて、
髭ダンやKing Gnuがあえて選ばなかった道を、大森元貴は選んだのではないか。
そして、星野源や米津玄師が到達しなかった場所へ、ひとまず到達してしまったのではないか。
そんなことまで思いました。
もちろん、これは優劣の話ではありません。
方向性の話です。
髭ダンやKing Gnuは、アート性をある程度前景化した。
星野源は外部の音楽語彙をJ-POPへ翻訳した。
米津玄師は独自の作家性の中でJ-POPを変形した。
大森元貴が『POPS』でやったことは、それらと少し違う。
J-POPそのものを、J-POPのまま、内部から極端に複雑化する。
それでも誰もが歌えるものにする。
それでも大衆音楽として成立させる。
私はそこに、ある種の到達点を感じました。
『資本主義と分裂症』としての『POPS』
ここから少し、音楽そのものから離れてみます。
『POPS』を聴いていて、私はドゥルーズ=ガタリの『資本主義と分裂症』を連想しました。
もちろん、ここでいう「分裂症」は医学的な意味での統合失調症そのものを指しているのではありません。
ドゥルーズ=ガタリが、欲望や主体がひとつの統一的な中心へ回収されず、複数の回路へ接続され、分岐し、流動していく状態を考えるために用いた「分裂的な過程」のイメージです。
資本主義は、古い共同体や身分や慣習のコードを解体します。
これを彼らは「脱領土化」と呼びます。
しかし、すべてを完全に自由にするわけではありません。
解体したものを、市場や貨幣や企業や消費といった別のコードへ回収し直す。
これが「再領土化」です。
『POPS』にあるのも、少し似た動きです。
ロック、EDM、トラップ、カントリー、ドラムンベース、ハイパーポップ。
それぞれのジャンルが、本来の文脈からいったん切り離される。
脱領土化される。
そして一曲の内部で、別のジャンルや別のビートや別の感情へと接続される。
しかし、完全なカオスにはなりません。
最終的にはすべてが、
「Mrs. GREEN APPLE」
そして、
「J-POP」
という巨大なコードへ回収される。
再領土化される。
この動きこそ、『POPS』の面白さではないかと思います。
「分人的」なポップス
後期ドゥルーズには、individualに対するdividualという言葉があります。
individualが「分割できない個人」だとすれば、dividualは「分割可能な存在」です。
現代の人間は、ひとつの統一的な個人としてではなく、年齢、購買履歴、趣味、行動履歴、アカウント、属性、スコアといった断片へ分割され、それぞれ別の回路の中で処理される。
そういう管理社会の主体像です。
ここでいう「分人的」という言葉は、平野啓一郎のいう分人主義とは異なります。
平野の分人主義は、家族といる自分、仕事をしている自分、友人といる自分といった、対人関係ごとに異なる自己をすべて「本当の自分」と認める考え方です。
『POPS』に感じる分裂性は、それよりもドゥルーズ的です。
ひとつの人格が複数の顔を持つ、というより、
そもそも統一された中心がなく、複数の要素がその都度接続され、分割され、再編成される。
ロックのミセス。
トラップのミセス。
ドラムンベースのミセス。
カントリーのミセス。
ハイパーポップのミセス。
そのどれかが「本当のミセス」で、残りが衣装なのではありません。
すべてが同時に存在する。
あるいは、もっと正確に言えば、曲の内部で次々に生成される。
私はそこに、大森元貴という表現者の多面性まで感じます。
ただし、それを大森本人の人格分析として断定したいわけではありません。
むしろ、『POPS』の音楽構造そのものが、一つの自己像へ簡単には回収されない。
そのことが、結果として大森という表現者の「多面性」を強く想像させる。
そういうことです。
現代のポップスは、ひとつである必要がない
いまの私たちは、一日の中で複数の文化圏を行き来します。
朝はニュースを見て、昼は仕事をし、夜はTikTokを眺め、Spotifyではヒップホップの次にアイドルを聴き、その後にジャズを流す。
ひとつの文化圏に所属し続ける必要がありません。
ひとつの趣味、ひとつの人格、ひとつの共同体に自分を固定する必要もない。
現代のポップカルチャーは、最初から複数の回路に接続されています。
『POPS』のめまぐるしさは、その感覚とよく似ています。
ロックの次にトラップが来てもいい。
ドラムンベースの途中でJ-ROCKのサビが来てもいい。
情念たっぷりのバラードの次に、多幸感の塊みたいな4つ打ちが来てもいい。
ひとつである必要がない。
一貫している必要もない。
それでも、「ポップス」であることはできる。
むしろ、それこそが2020年代のポップスなのかもしれません。
それでも、J-POPである
ここまで書いてきて、結局いちばん重要なのは、この点です。
『POPS』は分裂しています。
変拍子がある。
転調がある。
ジャンルが混ざる。
曲の途中で様式が変わる。
メロディーも落ち着かない。
アルバムの曲順まで、ときどき破綻しているように感じる。
それでも、最後にはJ-POPとして聴ける。
これはかなり不思議です。
普通なら、どこかでアート作品になる。
プログレになる。
実験音楽になる。
マスロックになる。
クラブミュージックになる。
「分かる人だけ分かればいい」という領域へ行く。
でも、『POPS』は行かない。
最後までポップスです。
焼肉であり、ラーメンであり、パスタです。
胸焼けするほど濃いのに、最後まで大衆食であり続ける。
私はそこに、大森元貴のすごさを感じました。
J-POPを超えたのではありません。
J-POPを捨てたのでもありません。
むしろ、J-POPを徹底的に引き受けた。
そのうえで、J-POPの内部にこれだけ多くのものを詰め込み、ここまで複雑にしても、それでもポップスとして成立させられることを示した。
だから『POPS』というタイトルなのだと思いたくなります。
ポップスの外側へ行くのではない。
ポップスの中を、もっと遠くまで行く。
私にとって『POPS』は、そういうアルバムでした。
