※本稿は『みいちゃんと山田さん』の物語全体、および結末に触れています。
以前、私は『みいちゃんと山田さん』について、「なぜこの作品はヒットしたのか」という観点から考察しました。
そこで注目したのは、知的障害、貧困、夜の仕事、性、暴力といった社会問題ではありませんでした。
むしろ、本来なら友達にならなかったはずの二人の少女が出会い、短い時間だけ特別な関係を築くという、古典的な「ガール・ミーツ・ガール」の物語として読むことを試みました。
『ハイジ』とクララ、『赤毛のアン』のアンとダイアナ、『小公女』のセーラとベッキー。そして現代なら『NANA』や岩井俊二の『花とアリス』『キリエのうた』。
もちろん作品同士に直接的な影響関係があるという話ではありません。
社会的な位置も性格も異なる二人の少女が出会い、その二人だけの小さな世界をつくる――『みいちゃんと山田さん』には、そうした非常に古典的な物語の型があるのではないか、と考えたのです。
しかし、この作品について書く以上、避けて通れない問題が残っています。
それが、「この作品は露悪的なのではないか」という批判です。
「露悪的」という批判は無視できない
『みいちゃんと山田さん』に対する批判には、相応の理由があります。
みいちゃんは社会生活を送るうえでさまざまな困難を抱えています。周囲から馬鹿にされ、夜の仕事に入り、搾取され、暴力にもさらされます。
しかも第1話の時点で、彼女が12か月後には死んでしまうことが読者に知らされています。
つまり読者は最初から、「この少女がこれから破滅していく」という未来を知りながら物語を読むことになります。
実際、ウェブ上では、こうした構造そのものを「みいちゃんの不幸を見世物にしているのではないか」と批判する議論があります。
さらに、作品中にはみいちゃんの言動をコミカルに見せる場面もあります。
だから、この作品には露悪性がまったくない、と私は言うつもりはありません。
むしろ、露悪性はあります。
問題は、その次です。
この作品は、露悪的であることに何の歯止めもない作品なのでしょうか。
私は、そうではないと思っています。
その理由を考えていて気になったのが、作品に「描かれているもの」ではなく、逆に「描かれていないもの」でした。
性を描く。しかし「成年誌」の視線では描かない
まず気になるのが、性の描き方です。
『みいちゃんと山田さん』には、性に関係する出来事が繰り返し登場します。
夜の仕事、男性客、性的搾取。
作品世界から性を取り除くことはできません。
ところが不思議なことに、この漫画を読んでいて、みいちゃんの身体が読者の性的欲望を刺激するための対象として演出されているとは、私はほとんど感じません。
ここで重要なのは、「性的な出来事が描かれているか」ではありません。
それを、どのような視線で描いているかです。
同じ出来事でも、カメラをどこに置くかによって意味は大きく変わります。
身体のどこを強調するのか。
どの角度から見せるのか。
表情をどう描くのか。
どこまで具体的に見せるのか。
漫画には、いくらでも性的興奮を増幅する技法があります。
そして『みいちゃんと山田さん』が扱っている題材を考えれば、それを利用することは簡単だったはずです。
しかし、作品はそこへ行きません。
性は描く。
性的搾取も描く。
しかし、性的搾取を描く作品自身が、その搾取に性的商品として便乗することは避けている。
私はここに、この作品の一つ目の倫理的な境界線があるように思います。
これは「性を描いているから不道徳」「描いていないから道徳的」という単純な話ではありません。
むしろ逆です。
かなり苛烈な性の現実を描きながら、それを読者の欲望を刺激する商品へ変換しない。
題材の過激さと、視線の過激さを切り離しているのです。
そして、みいちゃんは「妊娠しない」
もう一つ、作品を読み終えてから気になったことがあります。
みいちゃんの妊娠が描かれないことです。
正確に言えば、みいちゃんが作中世界で一度も妊娠したことがない、と断言することはできません。
作品に描かれていない以上、それは分かりません。
重要なのはそこではありません。
作者が「みいちゃんの妊娠」を物語として使わなかったことです。
これは考えてみると、少し不思議です。
みいちゃんの置かれている環境を考えれば、妊娠という出来事を物語へ導入することは、それほど不自然ではありません。
そして何より、悲劇を描く物語にとって、妊娠は非常に「強い」装置になり得ます。
望まない妊娠。
父親が誰なのか分からない。
中絶するのか、産むのか。
費用をどうするのか。
誰に相談するのか。
そこからさらに別の搾取へ巻き込まれる。
作者がみいちゃんの人生を「どこまで悲惨にできるか」という方向へ進めようと思えば、いくらでも利用できる題材です。
しかし、作品はそのカードを切りません。
「不幸のインフレーション」が起きていない
ここで私は、『みいちゃんと山田さん』に対する「露悪的」という評価を少し修正する必要があると思います。
確かにこの作品は、悲惨な出来事を描きます。
しかし、悲惨さを最大化してはいません。
これは大きな違いです。
露悪性そのものを娯楽にするのであれば、物語には簡単な方法があります。
前の出来事より、もっと酷いことを起こせばいい。
搾取された。
ならば次は暴力。
暴力を受けた。
ならば次は妊娠。
妊娠した。
ならば次は中絶。
さらに病気、借金、薬物、犯罪――。
物語はどこまでも悲惨さを増幅できます。
いわば「不幸のインフレーション」です。
しかし『みいちゃんと山田さん』は、少なくとも無制限にその方向へ進む作品ではありません。
もちろん、みいちゃんの人生は十分すぎるほど苛烈です。
そして最終的には、取り返しのつかない結末を迎えます。
だからこそ逆説的に、途中で作者が「何を追加しなかったのか」が見えてきます。
作品には、悲惨さをさらに増幅できる余地がいくらでもあった。
それでも、すべてを描いたわけではありません。
「描かない」という選択にも倫理は現れる
作品の倫理について考えるとき、私たちはどうしても「何を描いたか」に注目します。
障害をどう描いたのか。
貧困をどう描いたのか。
夜の仕事をどう描いたのか。
暴力をどう描いたのか。
もちろん、それらは重要です。
しかし、創作にはもう一つの選択があります。
何を描かないか。
作者は、作品世界で起こり得るすべての出来事を描くわけではありません。
無数の可能性から一部を選び、それ以外を捨てています。
だから、繰り返し選ばれなかったものにも、作者の価値判断が現れることがあります。
『みいちゃんと山田さん』の場合、その二つの例が私には、
「性を成年誌的な欲望の視線で撮らないこと」
そして、
「妊娠をさらなる悲劇の装置として利用しないこと」
に見えるのです。
この二つには共通するものがあります。
どちらも、やろうと思えば簡単にできる。
しかも、刺激を強くするという意味では、やった方が効果的です。
それでもやらない。
そこには少なくとも、「ここまでは描く。しかし、ここから先はやらない」という線が存在しているのではないでしょうか。
だからといって「倫理的な漫画」だとは言い切れない
ただし、ここで話を単純な擁護論にしたくはありません。
『みいちゃんと山田さん』に対して、「弱い立場にある人物の不幸をエンターテインメントとして消費しているのではないか」という批判が出ること自体は理解できます。
実際、2026年には作品の障害者表象をめぐって当事者団体からも批判的な意見が表明されました。
そうした批判を、「作品をちゃんと読んでいない人が騒いでいるだけだ」と片付けることも適切ではないでしょう。
問われているのは、もっと難しい問題だからです。
弱い立場にある人物の悲惨な人生をフィクションとして描くことは、どこまで許されるのか。
そして、
問題提起と見世物の境界はどこにあるのか。
これは簡単に答えの出る問題ではありません。
だから私は、『みいちゃんと山田さん』を「倫理的な作品」だと言いたいわけではありません。
むしろ言いたいのは、もう少し限定されたことです。
この作品には、少なくとも作者自身が設定したモラルの基準が存在するように見える。
ということです。
露悪的であることと、露悪に歯止めがないことは違う
この区別は重要だと思います。
『みいちゃんと山田さん』には露悪的なところがあります。
みいちゃんの奇妙な言動を笑ってしまう瞬間があります。
悲惨な出来事が、ページをめくらせる強い力になっていることも否定できません。
しかし、
露悪性があることと、露悪に歯止めがないことは同じではありません。
むしろ、この漫画を通して読むと、その境界線がところどころに見えてきます。
性を描く。
しかし、性的興奮のためには描かない。
悲惨な人生を描く。
しかし、悲惨さを無限に追加することはしない。
弱い人物を描く。
しかし、彼女を社会問題の「ケース」だけにはしない。
そして最後の点は、以前の記事で考えた「ガール・ミーツ・ガール」という読み方にもつながります。
みいちゃんには、障害、貧困、性、搾取といったさまざまな問題があります。
しかし山田さんと一緒にいる時間だけは、みいちゃんはそうした問題の集合体ではありません。
ただの「みいちゃん」です。
山田さんもまた、彼女を完全に理解できるわけではありません。
救うこともできません。
それでも二人が一緒にいた時間は存在します。
前稿で私が『みいちゃんと山田さん』を古典的な少女同士の友情物語として読んだのは、この部分でした。
今回考えた「作品の倫理」も、最終的にはそこへ戻ってくるように思います。
「描かれた悲惨さ」だけで作品を判断しない
SNSでは漫画の一部分が切り取られて流通します。
そして『みいちゃんと山田さん』ほど、この形式と相性の悪い作品も珍しいかもしれません。
一枚の画像だけを見れば、そこにはみいちゃんの奇妙な言動があります。
別の一枚には、性的搾取があります。
また別の一枚には、暴力があります。
それらを並べれば、
「弱い女性がどんどん酷い目に遭う漫画」
という像を簡単につくることができます。
そして、それは完全な誤読とも言えません。
実際にそうした出来事は描かれているからです。
しかし、作品の倫理は、スクリーンショットには映りにくい。
なぜなら倫理的な抑制は、ときとして**「そこにないもの」**として現れるからです。
成年誌的なカメラを使わなかったこと。
妊娠という悲劇を追加しなかったこと。
さらに酷い出来事を描けるところで、描かなかったこと。
そして、みいちゃんを「悲惨な女性」という属性だけで終わらせず、山田さんと笑ったり、話したり、一緒に過ごした時間を描いたこと。
そうしたものは、一コマを切り取っても見えません。
作品をある程度の長さで読んだときに初めて、「この作者はここまでは描くが、ここから先には行かないらしい」という境界線が見えてきます。
『みいちゃんと山田さん』は露悪的なのか
では結局、『みいちゃんと山田さん』は露悪的なのでしょうか。
私は、
露悪性を持った作品ではある。しかし、露悪そのものを目的とした作品ではない。
と考えています。
そして、その違いを考えるためには、作品に描かれた悲惨さだけを見るのでは不十分です。
むしろ、
描けたはずなのに、何を描かなかったのか。
そこを見る必要があります。
フィクションの倫理は、「正しいものを描くこと」だけに宿るわけではありません。
どこまで見せるのか。
どこでカメラを止めるのか。
どの出来事を物語に採用し、どの出来事を採用しないのか。
そこにも作者の倫理は現れます。
『みいちゃんと山田さん』は、その境界線をかなり危ういところに引いた作品です。
だからこそ、ある読者には「一線を越えている」と見え、別の読者には「ぎりぎり越えていない」と見えるのでしょう。
私は後者です。
この作品は、かなり危険なところまで行きます。
しかし、何でも描くわけではありません。
奈落を描くことと、人物を奈落へ突き落とすことは違う。
『みいちゃんと山田さん』を最後まで読んだあと、私にはその違いが残りました。
