※本稿は物語の結末に触れています。
『みいちゃんと山田さん』は、賛否の分かれる作品です。知的障害、貧困、夜の仕事、性、暴力といった題材の扱い方をめぐり、「露悪的ではないか」「当事者を消費しているのではないか」という批判が生まれるのも理解できます。作者をめぐる議論もあり、作品の外側にある情報が読み方へ強く影響してきました。
しかし、それだけでこの作品の価値を説明できるでしょうか。
最終回まで読み終えたとき、私が思い浮かべたのは社会派物語の系譜だけではありませんでした。最初に思い浮かべたのは、岩井俊二『キリエのうた』でした。コミュニケーションにハンディキャップのある少女と、パパ活で生計を立てている少女が都会でぐうぜん「再会」する友情の物語なのですが、ラスト、悲惨な結末を迎えてしまう・・・。そして、『アルプスの少女ハイジ』のハイジとクララ、『赤毛のアン』のアンとダイアナ、『小公女』のセーラとベッキー、そして矢沢あいの『NANA』や岩井俊二の『花とアリス』『キリエのうた』にも通じるのではないか、と気付きました。
これら作品同士の題材も時代も、結末も大きく異なります。直接的な影響関係を主張したいわけでもありません。それでも、そこには共通する強い物語の型があります。
それは、本来なら出会わなかったはずの二人の少女が出会い、短い時間だけ特別な世界を共有するという「ガール・ミーツ・ガール」の物語です。
社会問題漫画という枠だけでは残る違和感
『みいちゃんと山田さん』を社会問題漫画として読むなら、問いは比較的はっきりします。障害はどのように描かれているか。夜の仕事や貧困は正確に表現されているか。弱い立場の人物を刺激的な見世物にしていないか。
どれも必要な問いです。作品に対する批判と検討は、その作品が多くの人に読まれたからこそ、なおさら避けられません。
けれども、その枠だけでは、なぜ読者が「社会問題」そのものではなく、みいちゃんと山田さんという二人の関係に強く引きつけられたのかを十分に説明できません。
物語の骨格を抽象化してみると、見えてくるものがあります。
閉ざされた、あるいは傷ついた少女がいる。
そこへ、別の場所から来た少女が現れる。
二人のあいだに、外の世界とは異なる小さな親密圏が生まれる。
しかし社会、仕事、男たち、暴力がそこへ侵入し、関係は損なわれていく。
これは、表面上は非常に現代的でありながら、感情の運動としては驚くほど古典的な構造です。
「本来なら友達にならなかった二人」という古い装置
古典児童文学に描かれた少女同士の友情は、単に気の合う女の子が仲良くなる話ではありません。多くの場合、二人のあいだには越えにくい境界があります。
『アルプスの少女ハイジ』では、自然の中を自由に生きる貧しい山の少女ハイジと、裕福な都会の家で暮らす足の不自由なクララが出会います。まずハイジがクララの世界へ入り、その後はクララがアルプスへやって来ます。二人は互いの世界を往復することで変化します。
『赤毛のアン』では、孤児であるアンが、家庭のあるダイアナを「腹心の友」として得ます。ダイアナは数いる友達の一人ではありません。どこにも確かな居場所を持てなかったアンが、空想の中で求め続けた特別な関係を現実にしてくれる存在です。
ここで奇妙な偶然を発見する方もいらっしゃるでしょう。そう、『みいちゃんと山田さん』の作者・亜月ねねの旧ペンネームだとされているアカウントの名前、それが「ダイアナ」です。亜月ねね自身は、亜月ねねとダイアナが同一人物であることを否定していますが、アン = みいちゃん、ダイアナ = 山田さん、と見立てると、アンの腹心の友 = ダイアナが、旧ハンドルネームの由来だったのでは? と妙に勘繰ってしまいます(が、ここは亜月ねね自身が否定しているので)。
さて、話を元に戻し、『小公女』のセーラとベッキーです。両者の間にも階級の壁があります。裕福な生徒と貧しい使用人は、本来なら対等な友人になりにくい関係です。それでもセーラは、社会的な身分より先にベッキーを一人の少女として見ます。セーラ自身が没落すると、その友情はさらに切実なものになります。
ここで重要なのは、友情が深まること以前に、境界の両側にいた二人が出会ってしまったこと自体に物語的価値があるという点です。
この見方をすると、『みいちゃんと山田さん』も古い少女物語の延長線上に姿を現します。社会が貼りつける属性や評価の前に、二人が互いを一人の人間として認識する。その一瞬だけ、外の世界とは別の尺度が成立します。
『NANA』から『花とアリス』『キリエのうた』へ
現代作品で最も分かりやすい比較対象は『NANA』かもしれません。
大崎ナナと小松奈々は、性格も生き方も恋愛観も異なる二人です。偶然の出会いが二人の人生を結び、二人だけの親密な空間が生まれます。しかし、仕事や恋愛、男たち、社会的な成功と失敗が、その空間へ入り込んできます。「二人の女の子が出会った」という一文が、そのまま物語の根幹になる作品です。
岩井俊二の作品を考えるなら、『花とアリス』にも触れなければなりません。
花とアリスは親友でありながら、性格も他人との距離の取り方も異なります。花の思い込みから始まった嘘にアリスが巻き込まれ、恋愛をめぐって二人の関係も揺れます。それでも物語を動かしているのは、恋の相手となる少年以上に、花とアリスの関係そのものです。
とりわけアリスのバレエは、言葉では整理できない少女の内面を身体そのもので見せる場面として印象に残ります。岩井俊二は、台詞によって友情を説明しきりません。歩くこと、立ち止まること、視線を交わすこと、同じ場所にいることによって、少女二人の近さと遠さを描きます。恋愛は二人を揺さぶりますが、二人の関係を恋愛の添え物にはしません。
この感覚は、『みいちゃんと山田さん』を考えるうえでも重要です。二人を結ぶものは、互いを完全に理解したという結論ではありません。理解できなさを残したまま、それでも一緒にいた時間そのものです。
そして『みいちゃんと山田さん』の結末まで見届けたとき、私がより強く連想したのが『キリエのうた』でした。
似ているのは、単に傷ついた女性や社会からこぼれ落ちた女性が登場することではありません。一般社会から問題や属性として扱われる人物が、もう一人の女性といる時間だけは「ケース」ではなく、一人の人間として存在できることです。
『花とアリス』では、嘘と恋愛に揺さぶられながらも少女二人の関係が物語の中心に残ります。『キリエのうた』では、社会からうまく承認されない女性たちが出会い、互いの前でだけは一人の人間として存在できる時間が描かれます。岩井俊二の作品では、社会的なラベルの説明よりも、二人が同じ時間を過ごしてしまったことの美しさや危うさが前景化します。もし『みいちゃんと山田さん』が岩井俊二的な映像へ置き換えられたなら、作品の評価軸も変わるでしょう。「表象は適切か」という査定だけでなく、二人が一瞬だけ共有できた時間の悲劇として、その核心が見えやすくなるはずです。
途中までは「山田さんがみいちゃんを見る話」に見えます。しかし完結後に振り返ると、むしろ「山田さんの人生に、みいちゃんという少女が一瞬だけ現れた話」に見えてきます。出会いが物語の中心に置かれるという意味で、ここにもガール・ミーツ・ガールの形式があります。
回復の古典と、救済されない現代
ただし、『みいちゃんと山田さん』は古典の単純な反復ではありません。
『ハイジ』では、少女同士の出会いが回復へ向かいます。アンは家族や友人や地域の中に居場所を獲得していきます。『小公女』でも、苦難を通して守られた尊厳と友情は、最終的な救済へ接続します。
一方、『みいちゃんと山田さん』の二人を取り巻く世界は、親密さだけでは突破できないほど強固です。友情は存在しても、制度にはなりません。理解は生まれても、住まい、安全、医療、福祉、仕事の代わりにはなりません。
この違いは大きいです。
古典的な少女物語では、二人の出会いが閉ざされた世界を開く力になりました。本作では、出会いの価値は確かにあるのに、それが救済を保証しません。だからこそ悲劇は、友情が足りなかったという話ではなく、二人のあいだに生まれた小さな世界を、社会が支えられなかった話として読めます。
この「救済されなさ」こそが、古典的な型に施された現代的な変奏なのだと思います。
軽薄さは欠点ではなく、時代の形式だった
本作の絵柄や会話、展開の速さに「薄っぺらさ」や「軽さ」を感じる人もいるでしょう。しかし私は、その軽さには必然性があったと考えます。
スマホの画面では、知らない誰かの人生、暴力、貧困、友情、広告、娯楽が、同じ縦長の空間を流れていきます。一つの悲劇に立ち止まった直後、指を動かせば次の話題が現れます。令和の都市生活は、重い現実を軽い操作で消費する環境と切り離せません。
『みいちゃんと山田さん』の短い会話、単純化された人物造形、説明しすぎないコマ、次々と読ませるテンポは、その環境に合っています。重い題材を重厚な社会派劇画の文法で描いていたなら、同じ広がり方はしなかったかもしれません。
ここには一つの逆説があります。
この作品は、軽薄だから普遍性を失ったのではなく、軽薄であることによって古典的な普遍性へ到達したのではないか。
複雑な現実を短い時間で理解させるため、人物と状況は強く単純化されます。その単純化をさらに一段抽象化すると、最後に残るのは「本来なら出会わなかった二人が出会う」という、100年以上前の少女文学にも通じる物語です。
表層はスマホとSNSの時代です。しかし、その奥で動く物語は古い。だから入り口は軽くても、読み終えたあとには、説明しきれない喪失感が残ります。
ヒットは偶然でも、ヒットする要素はあった
作品がヒットするかどうかには、タイミングや拡散、読者との偶然の出会いが関係します。成功を後から必然として語ることはできません。
それでも、『みいちゃんと山田さん』にはヒットする要素がありました。
それは、古典的で強い感情の型 × 令和的な題材 × スマホ時代の軽快な形式です。
刺激的な題材だけなら、話題になって消費されて終わったかもしれません。古典的な友情物語だけなら、これほど現在の読者へ切迫して届かなかったかもしれません。両方が同居したことで、本作は「今」を映しながら、古い物語が持つ力にも接続しました。
作者の経歴や発言を検討することと、作品が結果として獲得した価値を読むことは両立します。作品への批判を封じる必要も、作品の価値を作者の意図だけへ還元する必要もありません。
そして露悪的だったかどうかは重要な論点ではあっても、本作のすべてではありません。
『みいちゃんと山田さん』の本質は、社会から異なる仕方でこぼれ落ちた二人が、偶然に出会ってしまったことにあります。その時間は世界を変えられなかったかもしれません。それでも、二人にとって世界の見え方を一瞬だけ変えました。
だから私はこの作品を、令和の刺激的な社会問題漫画としてだけでなく、古典から連なる悲劇的な「ガール・ミーツ・ガール」として読みたいのです。
