ほむら的自由の本質――『ワルプルギスの廻天』における神、悪魔、そして底根

※本稿は『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ〈ワルプルギスの廻天〉』および過去作の重大なネタバレを含みます。 『…

※本稿は『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ〈ワルプルギスの廻天〉』および過去作の重大なネタバレを含みます。

『ワルプルギスの廻天』、観てきました、公開日の週末、日曜。それで正直、かなり素直に「素晴らしい映画」でしたね。

TV 版リアタイかつ「叛逆」も公開初日に観て衝撃だった、のですが、今回は 13 年越しの新作ということで、ほぼ前情報を入れることができず、ていうか公開されたことすら直前に知って劇場へ行ったため、13 年のなかで「こういう続編であってほしい」という完成図を育てていませんでした。そのためだったか、ティロ・フィナーレに手に汗握り、セルマの重要性を見落としたことに快感を覚え、まどかの魔女化に「その手があったか」と驚きました。

同時に、観終わったあとに「ああ、こういうことだったんだな、」と思ったのは、シェリングです。

もちろん、脚本の虚淵玄がシェリングを読んで本作を書いた、と主張したいわけではありません。そのような制作上の事実を示す根拠を私は知りませんし、正直なところ、直接参照した可能性が高いとも思っていません。

ここで書くのは作者の意図ではなく、私自身の解釈です。シェリングの『人間的自由の本質』における自由、悪、根底という概念を通して見ると、『叛逆の物語』から『廻天』へ至る展開が、非常に面白い形でつながって見えるのです。

神になったまどかと、体系としての世界

TVシリーズの『魔法少女まどか☆マギカ』は、残酷でありながら、非常に強固な論理で構築された物語でした。

魔法少女は願いと引き換えに契約します。希望を抱いた少女はやがて絶望し、魔女になります。そしてその仕組み自体が、宇宙を維持するシステムに組み込まれています。

登場人物は、その体系の内部で苦しみます。時間を巻き戻せる暁美ほむらも例外ではありません。まどかを救おうとして失敗し、時間を戻し、また救おうとします。彼女は自由に時間を移動しているように見えて、実際には同じ体系の内部を循環し続けています。

そこへ鹿目まどかが現れます。

まどかは体系から単純に脱出するのではなく、自分を犠牲にして宇宙の法則そのものを書き換えます。魔法少女が魔女になる以前に救済する「円環の理」となり、新しい普遍的秩序を成立させます。

言ってしまえば、まどかは神になりました。

ここでTVシリーズは恐ろしいほど美しく閉じます。残酷な旧体系は否定され、まどかという神によって新しい体系が完成したのです。

ほむらは、神に「否」と言った

ところが『叛逆の物語』は、その美しく完成した世界をもう一度壊します。

壊したのは、ほむらです。

ほむらは円環の理から「鹿目まどか」という一人の少女を引き剝がし、世界を書き換え、自らを悪魔と呼びます。

私はここに、シェリング的な意味での自由を感じます。

シェリングにとって自由とは、単に好きなものを選べるという意味ではありません。本当の自由が存在するためには、善だけでなく悪を選ぶ可能性も現実的でなければなりません。善しか選べない存在は、完全に善良ではあっても、本当の意味では自由ではないからです。

そのため悪は、単なる善の欠如ではなく、自由そのものに内在する可能性として現れます。

まどかは世界を救済しました。普遍的な秩序を完成させました。それでもほむらは、その正しい秩序に従いませんでした。

たとえ神が作った正しい世界であっても、私はそれを受け入れない。

ほむらは、そう言ってしまったのです。

神に対する悪魔。普遍に対する個別。秩序に対する自由。

まどかの普遍的な救済に対して、ほむらは「私はまどかをこうしたい」という極端に個人的な愛を優先しました。それが正しいかどうかは、簡単には決められません。しかし、まさにその決められなさのなかに自由があります。

自由になった後の物語としての『廻天』

だから私には、『廻天』が「体系から自由になってしまった存在は、その後どうするのか」という物語に見えました。

TVシリーズのほむらの目的は、ある意味で明快です。まどかを救うために、時間を繰り返します。しかし『叛逆』の最後で、彼女はその循環自体を破壊しました。もう以前と同じ意味での「時間を繰り返す少女」ではありません。世界の法則そのものへ介入する悪魔になったのです。

公開後の否定的な感想には、「今回のほむらは、私の知っているほむらではない」「過去作から一貫していない」というものがありました。その違和感は理解できます。長い時間をかけて描かれた人物の決意が、後から都合よく変更されたのなら、それは批判されるべきでしょう。

ただ、私はここで別の問いを立てたくなります。

体系から自由になったほむらの行動が、過去のほむらから完全には演繹できないことは、本当に欠点なのでしょうか。

キャラクターの次の行動を、過去の性格、経験、欲望からすべて導き出せるなら、その人物は過去の条件によって決定されています。ほむらが本当に悪魔になったのだとすれば、彼女は世界の体系だけでなく、「これまでのほむらなら、こうするはずだ」という物語上の体系からも逸脱する存在なのかもしれません。

もちろん、「自由だから何をさせてもよい」と言えば、あらゆる脚本上の不整合を正当化できます。それでは批評になりません。けれども、過去から直線的に導けない行動をただちに人物造形の破綻と見なすのも早すぎます。

私は、その危うい境界に「ほむら的自由」と呼びたくなるものを感じました。

悪魔の存在 = この世界を保証

映画を観た直後、私は「悪魔の存在がこの世界を保証している」と考えました。

神だけでは足りません。

まどかが完全な救済の体系を作り、すべてがその内部で正しく処理されるなら、世界は美しく完成します。しかし、その完成へ「否」と言える存在がいなければ、そこに本当の自由はあるのでしょうか。

ほむらは、その「否」を担います。だから彼女は悪魔でなければなりませんでした。

これは、まどかが善で、ほむらが悪だから戦うという単純な対立ではありません。まどかの普遍的な善があまりにも完全であるからこそ、それに抗う個別的意志が必要になります。ほむらの悪は、世界を単なる完成品で終わらせず、再び物語が動く余地を作ります。

この観点から見ると、『廻天』のまどかが少し聖人的に見えたことも興味深くなります。私は鑑賞中、「まどかは少し聖人化されすぎているのではないか」と感じました。

しかし、現在の世界はほむらが書き換えた世界です。乱暴に言えば、ほむらの理想や妄想が現実の構造になった世界でもあります。神から一人の少女へ戻したはずのまどかを、ほむらは愛することで再び理想化し、聖女のような存在にしてしまいます。

人間として取り戻したいのに、愛するほど神へ近づけてしまう。ここにも、ほむらの自由が抱える矛盾があります。

「底根」は世界の外なのか、世界の根なのか

私が本作で最も警戒した新設定の一つが、名塚底根でした。

最初に感じたのは、「宇宙の外側を出してしまうのか」という不安です。世界の外に上位の世界を、その外にさらに別の原理を追加していけば、物語はいくらでも拡張できます。既存のルールの重みが薄れ、何でもありになりかねません。私はこの種の世界観拡張を、あまり好みません。

ただし、『まどマギ』では事情が少し複雑です。円環の理という宇宙の法則に介入し、世界を書き換える悪魔ほむらを受け入れた時点で、「円環の理が絶対的な最上位である」という前提はすでに崩れています。悪魔ほむらは認めながら、底根だけを「世界の外側だから反則だ」と退けるのは、論理的には難しいのです。

そして、ここで再びシェリングが顔を出します。

『人間的自由の本質』では、神を単なる完成した合理的存在とは考えず、神の存在を可能にする「根底(Grund)」が問題になります。さらに思考を進めると、根底と存在、光と闇といった区別そのものに先立つ「無底(Ungrund)」という発想へ向かいます。

もちろん、制作陣が「底根」という名にシェリングを込めた、と言いたいわけではありません。そうではなく、受容として名塚底根を「円環の理より強い上位ステージ」ではなく、円環の理という秩序そのものを可能にする根にあるものと読んでみるのです。

「すべての魔女の始まりの場所」である底根は、宇宙の外へ広がる設定ではなく、魔女という存在が可能になる根源へ降りていく設定なのかもしれません。

世界の外へ外へと広がるのではなく、世界の底へ底へと降りていく。

まどかという神がいます。その神に抗うほむらという悪魔がいます。そして、神と悪魔、秩序と自由、魔法少女と魔女という対立そのものの根には、何があるのでしょうか。

そう考えると、初見で最も違和感を持った設定が、逆に最も興味深い設定の一つへ変わります。設定インフレなのか、存在論的な深化なのか。その判断は続編を見なければつきませんが、少なくとも『廻天』は両方の可能性を開いています。

魔法少女という魅力

ここまで書くと、上映中にそんなドイツ観念論っぽいことを考えていたのか!? と思われるかもしれませんが、もちろんそんなことはありません。

私が単純に嬉しかったのは、『廻天』がちゃんと魔法少女の戦う映画だったことです。

世界の法則や円環の理や悪魔を扱いながら、それでもマミは戦い、さやかは戦い、杏子は戦います。そしてティロ・フィナーレが炸裂します。

特にTVシリーズで悲劇的な運命を経験したさやかや杏子が、再び悲劇の装置として消費されるのではなく、魔法少女として存分に活躍したことには大きな満足感がありました。形而上学的な設定の話だけに閉じず、王道の魔法少女ものとしてのスペクタクルと、『まどマギ』固有のカタルシスを両立させています。

そして戦闘について一つだけ欲を言えば、ほむらの時間操作を劇場版の映像で、もっと派手に見たかったです。実は使っていて、初見の私が見逃しただけかもしれませんが(笑)。

「そう来たか」という、あらすじの快楽

私が『廻天』を高く評価するもう一つの理由は、もっと単純です。

あらすじが面白かったのです。

たとえば、まどかの魔女化です。設定上、その可能性自体は想像できたはずです。それでも実際に物語と映像として提示されると、「その手があったか」と驚かされます。

そこへ至る観客の注意の誘導も巧みでした。

ワスは、ほむらと直接対峙する主要な敵です。だから私は当然、ほむらとワスの対立を今回の中心だと認識し、そこへ注意を向けていました。その結果、セルマの因果的な重要性を完全に見誤りました。

セルマが実は真の黒幕だった、という単純などんでん返しではありません。ワスはワスで本当に重要です。ただ、画面上で強く前景化される「劇的中心」と、物語を決定的に転回させる「因果的中心」が、一時的に分離していました。

そのため観客は、正しいものを見せられながら、別の重要なものを見落とします。騙されたというより、ちゃんと見ていたのに重要性を読み違えていた。その気づきが、私には大きな快楽でした。

「セルマがそこまで重要だったのか」から、「そこから、まどかの魔女化につなげるのか」へ。

この二段階の裏切りは、設定を考察して理解する楽しさとは違う、もっと原始的な物語の楽しさです。私は初見の二時間あまり、自分が予想した物語の重心を何度もずらされました。そのずらされ方そのものが面白かったのです。

「説明不足」「散漫」という批判をどう考えるか

公開後の反応には、「説明不足」「構成が散漫」「過去作の尖った部分を新設定が薄めている」「長く待った末の作品として完結していない」といった否定的な意見がありました。一方では、「個人とシステムの対立として一貫している」「まどかとほむらの願いが正面から衝突する物語として美しい」「考察の余地が豊かだ」という肯定的な意見もありました。

興味深いのは、同じ特徴が正反対に評価されていることです。

説明されないことを「不足」と見るか「余白」と見るか。複数の物語線を「散漫」と見るか「後からつながる構造」と見るか。過去作を更新する設定を「矮小化」と見るか「深化」と見るか。以前と異なるほむらを「人物の破綻」と見るか「変化」と見るか。

私は、設定のすべてを初見で説明できたわけではありません。それでも、何が起きているのか、誰と誰が対立しているのか、何が次の出来事を引き起こしたのかという大筋は、かなり素直に入ってきました。

「画面上のすべての記号を説明できること」と「物語を理解できること」は別です。私にとって『廻天』は、後者の理解によって十分に楽しめる映画でした。

ただし、否定的な評価を単に「理解できなかった人の感想」と片づけることもできません。新設定が旧作の意味を変えてしまう危険、映像的情報量と人物ドラマの釣り合い、一本の映画としての収束を求めたときの不満は、いずれも作品そのものに向けられた批判です。

私自身も「世界の外側を追加する設定は好みではない」という美学を持っています。つまり、誰もが何らかの「こうあってほしい」を持って映画を観ています。

大切なのは、期待していた映画と違ったことと、その映画が作品内部で失敗していることを、いったん分けて考えることです。

特に『廻天』の場合、長い待機期間に予告や考察を追い、理想の続編を育てた人と、私のようにほぼ予備知識なしで飛び込んだ人とでは、鑑賞条件が大きく異なります。さらに再見によって評価が変わる可能性もあります。賛否は単純な理解力の差ではなく、過去作への思い、期待、情報処理の仕方、初見か再見かという複数の条件から生じているのでしょう。

神が完成させ、悪魔がもう一度廻し始める

私にとって『廻天』は、ちゃんと『叛逆』の続編であり、ちゃんと『まどマギ』でした。

まどかという神が世界を完成させます。ほむらという悪魔が、その完成に「否」と言います。自由になった悪魔の行動は、過去の人物像から完全には導き出せません。そして世界の外側とも根底とも読める場所から、さらに根源的なものが現れます。

一方で、この映画にはティロ・フィナーレがあり、さやかと杏子が戦い、見落としていた人物が物語を動かし、まどかが魔女になります。形而上学的な読解の余地がありながら、同時に「次はどうなるのか」という素朴な物語の快楽があります。

私が初見で高く評価した最大の理由は、おそらく、この二つが競合せずに同居していたことです。

神が世界を完成させます。 悪魔がその完成を拒絶します。 そして世界は、再び廻り始めます。

その意味で、「廻天」という言葉ほど、この映画にふさわしいタイトルはなかったのではないかと思います。

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