「 岡田暁生 」一覧

3.11 以降の芸術の在り方

「エンタテインメントのあいだに違いがあるとすれば、エンタテインメントはやっぱりいま生きている、目の前にいる人に対して基本的にはやるものなんですよね。芸術というものにはやっぱり、死者、そして未来の、まだ見えない人のことが計算に入っているというか、視野に入っているか、そこの違いなんだと最近思うんです」(岡田暁生・三輪眞弘・吉岡洋(2011)「3. 11 芸術の運命」『アルテス Vol.01』p. 64)

岡田暁生・三輪眞弘・吉岡洋による討論内での、三輪眞弘の発言。三輪眞弘によれば、芸術は目の前にいない誰か(何か?)に向けられてこそ、芸術として認められる。 続きを読む


神話的な時間の出現としての 3.11

「すでに 3.11 よりも前に三輪眞弘さんは、私たちが「音楽」と名づけているものの大半が電気なくしては存立しえず、ほとんどその実体は電気であると言っても過言ではないことを指摘して、次のように書いていた。「コンピュータ音楽であれメディアアートであれ、『装置を使った(芸術)表現』についてなにかを語る際に、ぼくらは、ある装置を電源コンセントにつなぐことから始めているという事実に注目しようとはしない。『コンセントの向こう』には、つまり電力が安定的に供給される背景には、地球規模のエネルギー問題〔中略〕が果てしなく連なっていることを意識することはまずないはずだ」(『三輪眞弘音楽藝術 全思考一九九八ー二〇一〇』、アルテスパブリッシング、五頁)。これを読んでいまさらだが思う。これまでの人生で私は、音楽鑑賞のためにどれだけの量の電気ゴミ(エレクトリック・ウェイストとでもよぶべきもの)を排出してきたのだろう、と」(岡田暁生(2011)「芸術はなおも「頑張る物語」を語り得るか」『アルテス Vol.01』p. 36)
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岡田暁生『音楽の聴き方 聴く型と趣味を語る言葉』

「聴き方」というタイトルだけど、
実際には「音楽を語る」ことが議論の中心の本。
音楽を「語る」という行為は、最終的に不毛だと思う。
これは著者も言っているし、俺個人としてもそう思う。
でもそれは聴き手にとってのみで、あらゆるレベルでの作り手にとっては、
語ること、言葉にすることは、音楽にとっては不可欠になる。
それに、音楽を「語る」という行為が不毛であることは、
19世紀の西洋音楽社会に一般化した、
音楽「公演」と、「批評」と原因がある(らしい)。

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