金澤正剛『新版 古楽のすすめ』「まえがき」のノート

現在読んでいる、 金澤正剛『新版 古楽のすすめ』「まえがき」のノートです。小節線のある/なしについて、興味深い考え方があったのでメモ。

 

小節線のある/なしについて

「十五~十六世紀のポリフォニーの楽譜においては、今日のスコア方式の楽譜と異なり、それぞれの声部が別々に記されている。つまりテノルはテノルの旋律だけを、バスはバスの旋律だけを見て歌う。その点では今日のオーケストラのパート譜と同じであるが、拍子を示す小節線が引かれていない点が違う。各声部はそれぞれ基準となるタクトゥスに合わせて、強弱に関係なく、のびのびと歌う。アクセントはそれぞれの声部の歌詞の付け方にしたがって付ける。そこで各声部はそれぞれ独立した動きを続けながら、重なり合って素晴らしい調和の世界を生み出す。それこそがこの時代のポリフォニーの醍醐味である。 続きを読む


金沢正剛『新版 古楽のすすめ』で紹介されている音楽

  • パレストリーナ(バッハ以前の音楽家)
  • 『ダニエル物語』(中世の典礼劇)
  • ジョン・ダウランド(16 – 17世紀イギリスの作曲家、リュート奏者)
  • パーセル(17世紀イギリスの作曲家)
  • ロココ音楽(イタリアのバロック音楽と同時代、優雅で繊細なフランスの音楽)

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雑誌『アルテス Vol.01』(アルテスパブリッシング 2011)

誤解を恐れずに言えば、「初めてロッキングオンジャパンを読んだ中2以来の興奮」を、音楽誌において覚えた。

テーマが「3.11と音楽」、ということで、最初からガリガリ読んでいくと、そのほとんどが音楽〈そのもの〉(この点に関しては、私は ” musicking ” について、今一度考えてみなければならぬ)と関係のないように思えた。 続きを読む


大友良英「福島のフェスも土地に根ざしたフェスなんかでは全然ない」

「現実をごまかすための音楽ではなく、現実と戦っていく体力を養うための音楽が必要なんです」(大友良英(2011)「福島と下北沢 “まつり”は自分たちの手で」『アルテス Vol.01』p. 237)

雑誌『アルテス』創刊号の、巻末インタビュー見出しのことば。大友良英にとっては、高橋悠治とは異なり、東日本大震災以降の音楽が必要ということなのだろうか。 続きを読む


高橋悠治「震災によって何が変わるんですか」

「そりゃだって、地震が起こっても津波が起こっても、芸術が変わったというためしはないですよ。津波でいえば、スマトラ島の大津波があったでしょ。あれでなにかありました? 新しい芸術、ないでしょ。それはありえることではないんですよ。ポルトガルで一八世紀に大地震があった。ヴォルテールが書いているのは、いかに悲惨だったかということで、それと思想はなにも関係がない。それはレポートなんです。だから、ここでみんながそのことを問題にしても、現実に震災にあった人は誰も救われない。それは政治の問題なんですけど、いかにみんなががんばっていたかということを強調するだけ。そういうことで新しいものが生まれようがない。そういうことを言えば、メディアでバッシングされる。そういう国が日本なんですよ。だから新しいことはここでは起こらない。ただ、みんながそれについてひとこと言って、原稿料をもらうということです」(高橋悠治「問いかけながら道をいく ——— 今までの音楽は変わる時期にきている」(2011)『アルテス Vol.01』p. 112)

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3.11 以降の芸術の在り方

「エンタテインメントのあいだに違いがあるとすれば、エンタテインメントはやっぱりいま生きている、目の前にいる人に対して基本的にはやるものなんですよね。芸術というものにはやっぱり、死者、そして未来の、まだ見えない人のことが計算に入っているというか、視野に入っているか、そこの違いなんだと最近思うんです」(岡田暁生・三輪眞弘・吉岡洋(2011)「3. 11 芸術の運命」『アルテス Vol.01』p. 64)

岡田暁生・三輪眞弘・吉岡洋による討論内での、三輪眞弘の発言。三輪眞弘によれば、芸術は目の前にいない誰か(何か?)に向けられてこそ、芸術として認められる。 続きを読む


神話的な時間の出現としての 3.11

「すでに 3.11 よりも前に三輪眞弘さんは、私たちが「音楽」と名づけているものの大半が電気なくしては存立しえず、ほとんどその実体は電気であると言っても過言ではないことを指摘して、次のように書いていた。「コンピュータ音楽であれメディアアートであれ、『装置を使った(芸術)表現』についてなにかを語る際に、ぼくらは、ある装置を電源コンセントにつなぐことから始めているという事実に注目しようとはしない。『コンセントの向こう』には、つまり電力が安定的に供給される背景には、地球規模のエネルギー問題〔中略〕が果てしなく連なっていることを意識することはまずないはずだ」(『三輪眞弘音楽藝術 全思考一九九八ー二〇一〇』、アルテスパブリッシング、五頁)。これを読んでいまさらだが思う。これまでの人生で私は、音楽鑑賞のためにどれだけの量の電気ゴミ(エレクトリック・ウェイストとでもよぶべきもの)を排出してきたのだろう、と」(岡田暁生(2011)「芸術はなおも「頑張る物語」を語り得るか」『アルテス Vol.01』p. 36)
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